第011回 大化の改新

 今回は、大化の改新の政治の進展について、考えましょう。

まず、いつも通り、このころの東アジアの国際情勢をみていきましょう。

お隣の国、隋(ずい)といえば、中国の王朝です。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、

西晋が滅び、中国が分裂していました。

その分裂していた中国を再び統一してできた国が「隋(ずい)」です。

隋(ずい)は、581年から618年まで、続きました。

当時の日本、倭国から遣隋使が送られたのは、もう、知っていますね。

ところが、第二代 煬帝(ようだい)が失策してしまいます。

この煬帝(ようだい)という人は、中国の歴史を代表する暴君と言われていました。

この煬帝(ようだい)のお父さん、文帝が隋(ずい)を築き、

息子の煬帝(ようだい)が隋(ずい)を滅ぼしたと考えればよいでしょう。

実は、この煬帝(ようだい)になった人は、文帝の次男なんです。

派手好きな長男は、質素なお父さん・文帝に嫌われていたので、

両親に従順な次男を皇太子にしたのです。

ところが、その次男が中国史を代表する暴君であったともあるように

次男の本心は、全く別物だったのです。

文帝は、病を患っており、後継者を誰にしようかと考えていました。

長男は派手好き、次男は従順で謙虚。

もちろん、次男を選ぶことでしょう。

事実、その次男が第二代 煬帝(ようだい)の地位についたのです。

ところが、次男はお父さん 文帝の考えているような人ではなかったのです。

実は、煬帝の地位につきたいと思う一心で、実のお父さんである 文帝を

騙(だま)していたのです。

お父さんの文帝は、病死したといわれていますが、

実は、この次男に暗殺されたとも言われています。

しかも、実の兄も弟も殺してしまうのです。

そんな第二代 煬帝(ようだい)ですから、政治もうまくいきません。

国民を酷使して、彼に対する反感感情をあおります。

内政もだめ、国際的にも、高句麗遠征を3度行いましたが、

いずれも失敗に終わりました。

その後、隋は各地で反乱が起き、

そのたびに隋軍が鎮圧に動いたものの

隋(ずい)の首都である大興城も陥落してしまいます。

そして、煬帝は退位をします。

表面上は、太上皇として尊んだ形になっていました。

というわけで、隋(ずい)は滅び、それに代わって「唐(とう)」が生まれるのです。

この続きは、またの機会に書き込みます。

それでは、ひとまずは、ここまで。

次の機会まで、さようなら。



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