第012回 律令国家の成立 ( 平城京 )

「律令国家」がどのように成立されたのでしょうか。


 天武天皇の没後、その皇后である持統天皇が即位しました。

この頃、女性も天皇になれたのです。

 中国の都を真似て、藤原京を作ったのです。

そこは、道路を碁盤の目のようにして区画し、インフラを整え、

律令制度の実施に向け、準備が始まっていたのです。

「日本」という国号もこの時期に定められたと考えられています。


701年のこと…


唐の法律にならった「大宝律令」が作られました。

文武天皇の命によって編纂されたのです。

日本で初めて、体系的な法律ができたのです。

というのも、刑法、行政法、民法がそろった本格的な法典だったのです。

そして、この大宝律令が完成したことによって、

天皇を中心とした人民や土地を支配する中央集権的な国家体制が出来上がったのです。

それまでは、国の枠組みや行政の仕組みなどついての明確な決まりがなかったので、

明確に「官制」や「税制」や「刑罰」の仕組みを導入することで

国家の枠組みがはっきりとし、行政の運営がきちんとできるようになったわけです。

国家への収入も安定することや国の権力を天皇に集めることで、

より一層の枠組みを強固なものにしていったのです。

中央の政治は、「二官八省」という制度のもとで行われました。

祭祀(さいし)を司る「神祇官(じんぎかん)と、

それ以外の仕事を仕切る「太政官(だじょうかん)という二つの役所が設けられました。

太政官(だじょうかん)の下の八つの省がそれぞれの政務を担当したのです。


この大宝律令の

律(りつ):刑罰の決まり

笞(ち)、杖(じょう)、徒(ず)、流(る)、死の5種類がありました。

笞(ち)、杖(じょう)は、竹の鞭(むち)で臀(しり)を打つ刑でした。

徒(ず)は、懲役で、流(る)は、配所に流す刑で、死は、言わずと知れた死刑になります。

罪の軽い、重いによって、20等級にも分かれていたそうです。

令(りょう):政治を行う上での様々な決まり

です。


さて、律令に基づいて政治を行う国家を「律令国家」と言います。

この律令国家は、天皇と、天皇から高い位を与えられた貴族、

近畿地方の有力豪族が中心になって、運営されていました。

この話は、飛鳥時代末期から奈良時代中期頃のことです。


710年のこと…


唐の都である長安(西安)にならい奈良盆地北部に

律令国家の新しい都の平城京(へいじょうきょう)が作られました。

奈良に都が置かれ、平安京の都を移すまでの約80年間(正確には、74年間)を奈良時代と言っています。

この平城京(へいじょうきょう)を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、

天平文化が開花したのです。


都…


元明天皇(げんめいてんのう)が律令制に基づき、政治を行う中心地として、

それまでの都、藤原京から遷都して、大規模な都である平城京を築いたのです。

平城京のモデルは、当時、文化の進んでいたと言われる唐(中国)の長安という都(みやこ)。

平城京の大きさは、

東西 約4.3km

南北 約4.8km

長方形の東側には、外京として

東西 約1.6km

南北 約2.1km

つまり、総面積は、約2,500ha(ヘクタール)

大きな平城京ですね。

でも、長安城は、約8.4km x 約9.9km

お手本になった長安城はずっと大きかったんです。

平城京の南端には、羅城門(らじょうもん)があり、そこから朱雀門(すじゃくもん)まで、

メインストリートがまっすぐにのびています。

このメインストリートを朱雀大路の幅がなんと、74m。

車もない時代、広い道路幅だったのです。まるで、広場ですね。

朱雀門と平城宮を荘厳に見せようと、朱雀大路は、朱雀門に向けて傾斜がつけられ、

朱雀門と平城宮が高いところに見えるようになっていたのです。

そして、このメインストリートである朱雀大路の西側を右京。東側が左京。

碁盤の目のような区画のスケールの大きな都、平城京だったのです。

平城京には、平城宮という区画が北側に置かれました。


平城宮は、都、平城京の中心部


そこには、

・大極殿、朝堂院:政治や儀式の場

・内裏:天皇の住居

・太政官(だじょうかん)をはじめとする役所

・役所の日常的業務を行う官衙(かんが、官庁、役所のこと)

・宴会を行う庭園

が集められました。

ここの広さは、

東西、南北とも1km。

その東側に、東西250m。南北750m。張り出した部分があります。

平城宮の周りには、大垣が巡らされていて、朱雀門をはじめ、12の門がありました。

平城宮に入れたのは、

・皇族

・貴族

・役人

・使用人

のみです。

もちろん、現在は、特別史跡として、誰もが散策できます。

いろんなことを下調べしたうえで、散策をすると、有意義な深い散策ができると思います。

ところで、大極殿は、天皇の即位などの大切な儀式を行う場所。

平城京には、2箇所あります。

なぜでしょうか。

聖武天皇は、740年から745年まで、現在の京都、大阪、滋賀と遷都を繰り返し、

大極殿を解体しては、移築していました。

平城京を都と再びしたのが、745年のこと。

この時、以前の大極殿があった東側に新しい大極殿を築いたのです。

つまり、第一次大極殿は、元明天皇が建て、第二次大極殿は、聖武天皇が建てたものだったのです。

約10万人が平城京で生活をしており、そのうちの1割の約1万人が役所に勤めていたということです。

そして、平城京内では、東西に分かれ市(いち)が開かれ、

各地から送られた産物などの売買が行われていました。


ちょっと、話がそれますが、この頃、女性の天皇が結構、誕生していました。


707年 元明天皇が即位

715年 元正天皇が即位

749年 孝謙天皇が即位

764年 称徳天皇が即位

700年代に、四人の女性の天皇が誕生していました。今は、男子のみとなっていますが…。

ちなみに、今でこそ撲滅されたとされる天然痘。737年に大流行して、藤原四兄弟を筆頭に

政権中枢部の貴族の多くが犠牲となりました。

この平城京、シルクロードの終着点であり、この頃、国際都市として栄え、インド周辺、唐、新羅からも来ていたと言います。

その頃の状況をうかがわせるのが、東大寺の正倉院の宝物でしょう。

平城京は、軍事目的に作られた都ではなく、政治の中心地として作られた都と言えるでしょう。

ただ、平城京にも不便なところがあり、大量輸送ができる船が使える川が平城京のそばになかったため、

10万人の生活を維持するための食糧や飲料水、生活用水に悩まされたそうです。

生活排水を処理する下水道も完備されていなかったので、平城京の衛生状況が最悪だったそうです。

また、平城京遷都には、田上山(たなかみやま、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して利用したため、

江戸時代から現在に至るまで、緑化運動が続けられているものの、いまだに植生が回復していないそうです。

今だったら、自然保護団体や地元の住民がかなり、反対していたでしょうね。

朱雀門の建築に使用された木材は、950㎥。瓦の数は、4万1800枚、石材は、130㎥ だそうです。

そして、国際都市に発展していた平城京。


物の流通には、貨幣も必要ですね。


そう、富本銭(ふほんせん、日本初の銅銭)、和同開珎(わどうかいちん)も発行されました。

この和同開珎は、708年に、唐の「開元通宝」をモデルにして、初めて公的に鋳造、発行したとされる銭貨だそうです。

平城京の建設する人々への賃金としても和同開珎は使われました。

実は、708年正月、武蔵国から朝廷に銅が献上されました。これを記念して、朝廷は年号を和銅と改めて貨幣を作ったのです。

それが、和同開珎です。

ただ、この頃は、まだまだ、物々交換が主流だったこの頃の日本だったようです。

奈良県の明日香村の飛鳥池工房遺跡が富本銭の造幣工場で、日本最古の貨幣と判明した富本銭。

1969年に平城京跡から1枚発見されたのをきっかけに、藤原京跡、群馬県藤岡市の神栗須遺跡などから、1枚だけ発見されていました。

これでは、本当に流通した貨幣かどうかを断定することができませんでした。

単なる記念硬貨的な位置付けかも知れませんでしたから。

そして、飛鳥池工房遺跡の発掘調査で34枚の富本銭が出土し、遺跡全体で300枚程度の富本銭が見つかったのです。

その後の調査により、この飛鳥池工房遺跡が造幣工場であったことが明らかになり、富本銭が日本最古の銅銭、貨幣となったのです。


地方…


多くの国に分かれていました。

その国々には、国府(こくふ)と呼ばれる役所が置かれていました。

その国々には、都から国司(こくし)が派遣されました。主に貴族が派遣されていたようです。

国司(こくし)は、地方の有力な豪族を郡司(ぐんじ)に任じ、政治を行いました。

国司(こくし)が、都から派遣したのは、全国を統一して、支配しようとしたためです。

国司(こくし)は、郡司(ぐんじ)に対して官位昇進の決定権を持っていて、郡司(ぐんじ)に対する国司(こくし)の権限は強かったようです。

ところが、その国の住民に対しては、地方豪族として勢力があり、知名度も高い郡司(ぐんじ)の方が、ずっと、統制する力があったのです。

郡司(ぐんじ)の任免は、式部省が管轄していたそうです。

国司(こくし)は、郡司候補を推薦できますが、その郡司候補者が式部省に直接赴いて、試問を受け、任命ということになっていたそうです。

国司(こくし)が推薦したからといって、必ずしも郡司(ぐんじ)になれるわけではなく、その地方の情勢で判断され、決定されたようです。

その間、郡司(ぐんじ)は不在となってしまいますが、このとき、国司(こくし)は、臨時郡司(ぐんじ、擬任郡司)を任命することができたそうです。

太宰府が設置されたのは、現在の福岡県。

7世紀半〜13世紀末まで、九州地方の政治のほか、大陸との外交、防衛をあたっていました。

遠の朝廷(とおのみかど)と言われるほど、重要な役所だったのです。

多賀城が設置されたのは、現在の宮城県。

8世紀に国府・鎮守府として設置されました。

東北地方の政治のほか、軍事面も司っていました。

地方には、

国:中央の役人が国司として派遣されていました。一国の行政を国司は司っていました。824年現在、66国、2島ありました。

郡:地方の豪族が郡司に任命され、郡の行政を司っていました。当時、約600の郡があったと言われています。

里:その土地の有力な農民が里長に任命され、約50戸を管理していました。全国に、当時、約4000の里があったと言われています。

このように地方は五畿七道で都と結ばれ、国郡里制が敷かれていたのです。


交通網


都と地方を結ぶ道路、五畿七道が整備され、役人が行き来できるために16kmごとに駅が設けられて、

乗り継ぎ用の馬も用意されていました。ただ、その馬を利用できるのは、駅鈴(えきれい)という鈴を持っている役人だけでした。

五畿とは、畿内の五つの国で、

大和、山城、河内、摂津、和泉

です。

七道は、都から地方にのびる道に基づいて7つの行政区分に分けられていたのです。

東山道(とうさんどう)

東海道(とうかいどう)

北陸道(ほくりくどう)

畿内(きない)

南海道(なんかいどう)

山陽道(さんようどう)

山陰道(さんいんどう)

西海道(さいかいどう)

「道」とは、都である平城京と地方をつなぐ道という意味と

その道路沿いに並んで連絡し合う国々の集まりという道という意味の二つの「道」の意味があります。


二官八省


さて、この頃の役所の仕組みは、二官八省と呼びます。

日本の頂点には、天皇。

その下には、太政官と神祇官がありました。

太政官:国の最高期間で政策の決定を行いました。

そこには、

太政大臣、右大臣、左大臣、大納言などがいました。

神祇官:祭りや神社の管理をしていました。

この二つの機関とは別に、五衛府(ごえふ)がありました。

この機関は、宮・京の警備にあたっていました。

太政官のもとには、以下の通り八省がありました。


宮内省(くないしょう):宮中の一般事務、天皇や皇室の雑務をしていました。

大蔵省(おおくらしょう):出納、物資の管理、朝廷行事の準備などをしていました。

刑部省(ぎょうぶしょう):刑罰や裁判、良民や賎民の選定などをしていました。

兵部省(ひょうぶしょう):軍事、武官の人事などをしていました。

民部省(みんぶしょう):戸籍、租税管理、国家財政の管理をしていました。

治部省(じぶしょう):貴族や僧尼の儀式や仏事、外交事務をしていました。

式部省(しきぶしょう):文官の人事、教育、学校などを管理していました。郡司の決定もここだったですね。

中務省(なかつかさしょう):天皇の側近事務、天皇の命令書の作成、国司の編纂などをしていました。


どうですか、現在の日本の政治のシステムと似ている省もありますね。


当時の日本は、平城京という大きな都を築くことができたのでしょうか。


国際的地位を築き、律令国家として中央集権国家になるためにも、

今までの一時的な都ではなく、確固たる都を築き、国を納めることができるようにするために

今までにない大規模な都を作り上げたのです。それだけ、朝廷の思いもあったのでしょうね。

途方もない木も伐採し、自然破壊もしながら発展を遂げる日本は、この頃が原点だったのかもしれませんね。



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