第015回 都が平安京に移り、政治や社会は?そして、東アジアの変化は?
第015回 都が平安京に移り、政治や社会は?そして、東アジアの変化は?
700年代の出来事です。(750~800)
ポイント:都を平安京に移し、政治や社会の動きをみてみましょう。
その1 都:平安京
奈良時代後半のお話です。時は、750年から800年です。
このときの天皇は、桓武天皇(737~806)。
ちょっと、彼のプロフィールを見てみましょう。
奈良時代末期から平安時代初期にかけての天皇です。
即位したのが、781年。
彼は、都を784年に平城京(奈良県)から長岡京(京都府)に移し、794年に平安京(京都市)に移しました。
短期間に遷都を繰り返していました。
というのも、奈良時代後半は、政治や社会が乱れていました。
貴族や僧の間で勢力争いが激しくなっていたのです。
東北地方の蝦夷(えみし)に対して、彼は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を
征夷大将軍として、大軍をおくって、朝廷の勢力を広げた人です。
ところで…
『平安京』って
先に書いたとおり、794年に京都に開かれました。
モチーフは唐の都:長安(西安)
4.5km(東西)x5.2km(南北)
朱雀大路(すざくおおじ)をはさんで、東側が左京、西側が右京。
どっちが栄えていたかというと…
左京から鴨川を越えたあたり。
面白いですね。なにがあったんでしょうか。調べてみてくださいね。
ごばんの目のような道路が特徴的ですよね。
北には大内裏(だいだいり)が置かれています。
そこの内裏(だいり)は天皇の住居です。また、役所もたくさんありました。
内裏(だいり)…『おだいりさ~まとおひなさま ふーたりならんですましがお♪』
そうそう、雛祭りのときに歌いますよね。あれです。
ちなみに鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を『平安時代』とよんでいます。
ただ…鎌倉幕府の成立が意外と意見が分かれていて…。
そのお話はまた、別な機会にすることにしましょう。
さてさて、目を東アジアに向けてみましょう。
8世紀末の東アジア…。
8世紀末って、西暦でいうと、もう、800年に近いころ…ということです。
だいじょうぶですか?覚えていますか。忘れた人は、繰り返し、復習しましょう。
このころの東アジアの国々の緊張はなくなり、東北、九州地方以外の一般の兵役はやめました。
そして、内政の充実を図ったのです。
・役所の整理
・国司に対する監督強化
・律令のきまりの改正
ところがです。あのいつ始まったか定かでない『班田収授法』が行われなくなっていました。
というのも戸籍のいつわりが多く、できなかったのです。
750年以降、800年代前半にかけて、朝廷は東北地方の蝦夷(えみし)に大軍をおくって勢力を広げました。
そのときの『征夷大将軍:坂上田村麻呂』は大活躍をしました。
ただ、朝廷に平定された東北地方ですが…
蝦夷(えみし)の朝廷、律令国家に対してへの反発は、
ずーと、続いていきます。
『征夷大将軍』って…
奈良~平安時代初期に蝦夷(えみし)を平定するために朝廷が送った軍隊の最高指揮官のことです。
坂上田村麻呂は797年に任命を受けていますが、その前にもその後にも、結構、任命を受けています。
その征夷大将軍の中でも東北地方を平定した坂上田村麻呂は、有名なのです。
征夷大将軍、長いですよね。短く『将軍』と、いつしか呼ぶようになりました。
ただ、鎌倉時代以後、幕府の長、武家の棟梁(とうりょう)をあらわすになりました。
源頼朝(みなもとのよりとも)は朝廷から任命されて、鎌倉幕府を開いています。
有名ですよね。
室町幕府は、足利氏、江戸幕府は、徳川氏。みんな『征夷大将軍』です。
その2 僧:最澄、空海 登場
9世紀のはじめ。西暦でいうと…
もう、いい加減覚えましたか?そうです。801~850年くらいのお話。
最澄と空海は唐に渡りました。このころまだ、遣唐使の制度がありましたから、
一緒にいったのです。
彼らが日本に伝えたことは…
『仏教の新しい宗派』です。
『最澄』のプロフィール
平安時代の僧。天台宗の開祖。最澄=伝教大師(でんぎょうだいし)
近江国(滋賀県)出身。
彼が19歳のとき比叡山(ひえいざん:滋賀県・京都府)に小さな堂を立てて
修行に励ました。それが、のちの『延暦寺』です。
804年に空海、遣唐使とともに唐へ。天台宗を彼は学びます。1年間の滞在を経て
帰国し、桓武天皇の保護のもと、806年に日本独自の『天台宗』を開くのです。
空海との関係:最初は親しかったのですが、仏教に対する考え方に相違が生まれ、関係が悪化。
『空海』のプロフィール
平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄=弘法大師(こうぼうだいし)
讃岐国(香川県)出身。
唐に渡ったのは、最澄と一緒ですから、804年です。彼は、真言密教を学びました。
日本への帰国は、806年。
そして、816年、高野山(和歌山県)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建立し、真言宗を広めました。
彼の得意なものは、漢文、漢詩。彼の書道も有名。
かんがい用の池、井戸掘り、なんでもこなしました。
とくに香川県の満濃池(まんのういけ)を直した話は有名です。
彼らのプロフィールを見てわかったと思いますが…
人里はなれたところでの学問、厳しい修行。結構、やりたくないのでは…。
それでも、貴族たちには、結構、受け入れられたのですよ。
その3 遣唐使が…。そのとき、東アジアでは何が?
勢力が衰えた『唐』。日本がお手本にしていた『唐』。
とうとう、『唐』にも終末を迎えるときがきたのかも。
と、冗談を言っている場合ではありません。
唐では、国内の反乱があい次いで、大変な時代を迎えていました。
遣唐使を20回、派遣することを計画していましたが、雲行きがあやしくなってきました。
遣唐使の派遣の間隔が長くなってきたのです。
危ないですから。唐は内政不安ですから。
そのころ、新羅や唐の商船は、交易をしていて
『日本-新羅』『日本-唐』のルートができていたのです。
これを利用しない僧はいないです。
遣唐使とは別な手段で、『日本-唐』の行き来は続いていたのです。
そして、この唐の内政不安から唐に行きたくなかった菅原道真は、
朝廷に『遣唐使の停止』を訴えました。その訴えは認められて、
遣唐使は停止することになったのです。それが、894年のことでした。
それでは、『菅原道真』のプロフィールをみてみましょう。
平安時代初期の学者であり政治家です。右大臣になりました。
宇多(うだ)天皇と醍醐(だいご)天皇に信頼を受けていました。
先にも述べましたが、遣唐使を停止させた人です。
藤原氏の策略から、901年に大宰府(福岡県)に左遷させれてしまいます。
彼の一生は、ここで終わってしまうのですが…
彼をいじめた藤原氏一族、朝廷に不幸が続き、『菅原道真のたたり』だ!と
恐れをなし、菅原道真の霊をしずめよう!と
北野天満宮(京都市)や大宰府天満宮(福岡県)に祭られたのです。
そして…学問の神様(天神)として、有名ですね。
『てんじん さま の いうとおり♪』なんて、歌もありましたね。
どちらにしても、合格祈願に行きますか?
やっぱり、学問の神さま『菅原道真』は正しかったのでしょう。
唐が、とうとう、唐世紀、いや、10世紀のはじめにほろんでしまいます。
唐世紀、いや、10世紀。西暦何年から何年でしたか?
901年から1000年。でも、10世紀はじめですから、901年から950年。
もう、大丈夫ですよね。
さて、唐のあとをうけて、中国を統一したのが宋(そう:北宋)。
朝鮮半島では、このころ高麗(こうらい)がおこり、新羅(しらぎ)がほろんだのです。
激動の10世紀はじめ。東アジアの情勢が急変します。
日本は、遣唐使も停止され、新しい国、『宋』や『高麗(こうらい)』と国交があったのでしょうか。
じつは、国交がなかったんです。でも…
先にも書いた通り、交易がありましたよね。つまり、正式な国交がなくても、
両国の商人たちは交易を行い、お互いの国同士で、行き来があったのです。
草の根の交流…っていうことでしょうか。
『蝦夷の抵抗』についてみてみましょう。
蝦夷(えみし):当時、東北地方在住の朝廷に従わない人。
のんびり暮らしていた蝦夷(えみし)。
彼らの文化を守りながら、自然とともに生きていた蝦夷(えみし)。
そんな彼らに朝廷は、貢物をおさめなさいと強制したり、武力で彼らの抵抗を抑えました。
悲しいことですね。
けなげに抵抗した人の一人、『アテルイ』。
彼は、胆沢(いさわ)地方中心に活動していた蝦夷(えみし)の指導者。
789年に、五万人の朝廷軍がアテルイに惨敗。
797年に、坂上田村麻呂が征夷大将軍として任命されました。
801年には、四万人の朝廷軍を率いて、胆沢地方を平定したのです。
802年に、胆沢城ができました。降伏したアテルイはというと…
都へ連れられ、河内(かわち)で処刑されたのです。
坂上田村麻呂は、朝廷にアテルイの命を助けるように頼んだのですが、
その願いは受け入れられず、処刑となったのです。
それでは、気分を取り直して…
桓武天皇の政治改革についてまとめましょう。
① 律令制の立て直し。
国司の監視を強化しました。
税や労役を軽くしました。
律令のきまりを改正しました。
② 東北地方の支配
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、蝦夷(えみし)を征服、東北地方を平定して、勢力の拡大しました。
③ 新しい仏教
最澄が比叡山延暦寺を建立して天台宗を開きました。
空海が高野山金剛峯寺を建立して真言宗を開きました。
余談ですが、同じ時期に二人とも、唐に渡り、仲が良かったのですが、
仏教の考え方の相違から仲たがいすることになります。
今日は、この辺でおしまいにします。