第017回 武士のおこりと成長の過程について
武士のおこり
10世紀のこと。
地方で大きな変化が起き始めました。
豪族が開墾した私有地を領地として広げていきます。
そして、国の警備に武力を発揮しはじめ、
勢力を伸ばします。
都では、貴族の身辺や屋敷の警備にあたったのは、
武官(ぶかん)と言われる人たちでした。
この武官は、朝廷の役人で、
御所(天皇などの住まい)の警備に当たった役人のことです。
警備を任されるようになると
その実力を認められるようになっていきます。
このように、警備が必要な世の中になった中世。
御所や貴族の屋敷の門番など
治安維持をするため、いまでいう、警察、護衛隊のようなことをする
人々が増えはじめたのです。
自分が支配している土地や人々を守る必要があったのです。
地方の豪族と中央の武官(決して高い身分ではありません)は、
婚姻、主従関係を結んでいきます。
お互い警備、武装している人たちなので、
こういった交流が「武士」が生まれていったのです。
個々の「武士」は、その家来をまとめはじめ、「武士団」をつくるようになります。
小さな力が、だんだんと集団化していくのです。
小さな集団が武力を行使することで、世の中は戦乱の世の中へ突入していくことになります。
10世紀の中頃、
関東では、一族の領地争いから、(935~940年)平将門(たいらのまさかど)が乱を起こし、
赤い旗を持った朝廷の武士団が鎮圧にあたりました。このとき、平将門は新皇となのって、
関東地方を支配していったのです。
瀬戸内海地方では、(939~941年)藤原純友(ふじわらのすみとも)が乱を起こしました。
もちろん、朝廷もこの武士団を利用して、
反乱を抑えるという行動にもでていたのです。
武士団の構成ですが、
主人と家の子、郎党、下人との間に主従関係ができ、
小武士団ができ、その小武士団をまとめた大武士団が出来上がっていったのです。
下人や所従は、日ごろは、主人の屋敷周辺に住んでいて、
戦いが起きた場合、馬の世話や兵糧の運搬などを手伝いました。
基本的には、彼らは戦いませんが、騎馬隊の補助をすることが
彼らの役割のほとんどでした。
有力な武士団
天皇の子孫である源氏と平氏が有力な武士団でした。
11世紀後半のこと、東北地方で、大きな戦乱が起きます。
前九年合戦(陸奥の国が戦いの場):1051~1062年 源頼義(父) 義家(子)陸奥の国司(勝者) vs (敗者)陸奥の豪族 安倍氏
この戦いの20年後に…
後三年合戦(出羽の国が戦いの場):1083~1087年 藤原 清衡(勝者) vs (敗者)清原氏
この二つの戦いから
源氏の源 義家(みなもと の よしいえ)が東日本に勢力を広げていきました。そして、
奥州 藤原氏が栄えました。
そして、12世紀にはいり、二つの戦乱がおこります。保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)です。
武士団は、関東から痛部、北九州に多く分布していました。
そして、平氏は国司の歴任、海賊の追補などから、西日本に勢力を伸ばしていきました。
平氏が西日本を支配し、源氏が東日本の勢力となるのは、まだ、先のことなのです。
上皇がこれまでにない政治を行ったため、政治の実権をめぐる争いから、
次の二つの乱が起きました。
平治の乱のときに、平清盛が源義朝を破り、勢力を増やし、
武士が政治に影響を与えるようになていったのです。
1156年に起きた保元の乱では、
皇室は、後白河天皇(弟) vs 崇徳上皇(兄):いわゆる兄弟喧嘩になってます。
摂関は、藤原忠道(兄 ただみち) vs 藤原頼長(弟 よりなが) :いわゆる兄弟喧嘩になってます。
平 清盛(おい)vs 平 忠正(叔父)
源 義朝(子・兄)vs 源 為義(父)。為朝(弟)
結局、皇室、上級貴族内部の争いを武士の力で解決し、後白河天皇側の勝利に終わりました。
一方、1159年に起きた平治の乱は、
藤原 道憲(信西) vs 藤原 信頼
平 清盛 重盛 vs 源 義朝 義平 頼朝
皇室や上級貴族に関係なく、院の近臣や武士の対立がめだち、結局、 藤原 道憲、平氏側が勝利をおさめました。
この戦いで、源 頼朝は、伊豆に流されました。
荘園
墾田永年私財法によって、荘園が発生しました。
荘園の持ち主と国司は、領域や税の納入を巡り、しばしば対立をしていました。
院政が始まったころ、荘園の持ち主は、上皇や藤原氏や大寺社に荘園を 寄進することで、
表向きの所有者(荘園領主)になってもらいます。荘園を寄進した本人は、
引き続き荘園を管理する荘官となったのです。
荘園領主は権力があるため、
税が免除されたり、国司の使者の立ち入りを拒否したりする荘園も現れ始めました。
実際、武士は、荘園の寄進をしたり、公領の管理者となり、中央の権力者との関係を強めていったのです。
より身分の高い貴族に寄進すれば、
口実をつけ、開発した土地を国司が奪うのを防ぐことができるようになってきたのです。
こうやって、武士は、権力者の保護を受けながら勢力を伸ばしていったのです。
院政
新しい政治が求められたこの時代、
藤原氏と関係のうすい後三条天皇が関白を抑え、改革を行いました。
次の白河天皇は、幼い息子に天皇の位を譲ることで、
上皇となり、院と呼ばれた上皇の誤射で政治を続けたのです。
1086年から1129年まで、院政が続きました。
1107年に亡くなった堀河天皇は院政を行うことはありませんでした。
摂政や関白の力を抑えた形で政治を「院政」とよんでいます。
上皇は、税の免除などの権利を荘園に与えたため、
どんどん、上皇のもとに荘園が集まったのです。
寺社は、神仏の力によって政治を行った上皇に保護されたため、
やはり、荘園を広げていきました。そして、武装した僧(僧兵)をかかえながら、
勢力を伸ばしていったのです。
僧兵は、仏の権威を背景に、力ずくで院や朝廷に主張を通そうとしたのです。
これを、強訴と言っています。