第051回 産業発展を目的に明治政府が進めた政策 : 岩倉使節団と殖産興業
今回は、産業を発展させるために明治政府はどのような政策を推進したのでしょうか。
まず、岩倉使節団について。
明治政府がすすめていた明治維新の目的の一つ、
近代国家の成立のためには、どうしても海外を見つめる必要がありました。
しかも…
不平等条約を覚えていますか。
そうなんです。あの1858年に結んじゃった日米修好通商条約など
安政の五カ国条約は…開国のためとはいえ
領事裁判権を認めちゃいました。しかも、関税自主権がありません。
どうしようって思ってこの「岩倉使節団」を組織したのです。
そして、当時、右大臣だった岩倉具視が全権大使として、
副使には、木戸孝允(きど たかよし)や大久保利通ら。
1871年12月に出港して、欧米を視察したのです。
井の中の蛙(かわず)ではいけません。
約2年間、欧米を旅しました。
どうやって?
そりゃ、世界一周ルートができたてほやほやでしたから。
さすが、目の付けどころがいい、日本の将来がかかっていますから、
ここは、どんなことがあっても、海外の国々の様子を見て欲しかったのでしょう。
なにせ、鎖国していましたから。
結果からいえば、この不平等な条約改正という夢は破れました。
なぜ?
理由は、日本の近代的な法が準備されていなかったからなのです。
それでも…
欧米諸国の政治や産業社会の状況把握には、役立ったのです。
使節団に参加した人々が痛感したことは…
もちろん
国力の充実
だったのです。
そして、彼らが帰国したのは、1873年9月のことでした。
さてさて、
国力の充実 → 富国 → 殖産興業
なんでしょう、これ。
実は、明治政府の考え方です。
近代的な産業を育てることが富国への近道と考えた明治政府は、
「殖産興業」を推進したのです。
産業を育成させるためには…
まず、交通網の整備です。
1872年に新橋-横浜に鉄道が開通しました。
主要な港と都市も鉄道で結ばれました。
なぜ?
そりゃ、工場で作られた製品を港まで運ぶ手段を明治政府はつくったんです。
そりゃそうでしょ。
つくっても、峠をトラックでトコトコ運ぶよりも
鉄道で一度に沢山の製品を運んだ方がいい…
コストパフォーマンスに優れていたのです。
というわけで、交通網が作ら始めました。
そして、次に産業の発展に欠かせないもの。
そうです。通信手段。
郵便制度や電信網の整備が推進されたのです。
そして、主力の工場に力を入れました。
そうです。官営の模範工場をつくったんです。
鉱山や炭鉱です。
そして、群馬県の富岡製糸場は有名ですね。
明治初期の日本の輸出を支えていた生糸の増産、そして品質向上のために
建設されたのです。フランス人の技術者たちが指導をして、
フランスの機械が導入されました。
働いてる人たちの大半は、士族の女子でした。
この官営工場、じつは、のちに民間に払い下げされます。
企業家である渋沢栄一らの活躍もあって、
経済の発展を活性化させることができたのです。
さて、いままでは、日本の全体的なお話でした。
今度は、日本の北の地方に目を向けましょう。
どんな地方がありましたっけ。
古代からずーっと、支配の手が及ばず、
歴史を勉強するときに、顔を見え隠れしていたところ。
そして、征夷大将軍の名前の由来にもなったところ。
もう、わかりましたね。
蝦夷地です。
ここは、明治政府にとっても、重要なところでした。
ただ、亜寒帯の地でもあり、生活自体が厳しく、
住むこと自体が大変だったのです。
しかし、ロシアと日本の国際的な関係も重要ですね。
そこで、この明治維新を機に
蝦夷地 ☞ 北海道
しかも、1869年に「開拓使」という役所を置くことによって、
統治を強化したのです。
地理的分野で詳しく、解説していきますが、
北海道は、本州の北に位置する大きな島。
明治以降、行政区画になりました。
それは、先ほども書きましたね。
ロシアと日本の国際的な関係を重要視した
明治政府の意向による政策だったのです。
もちろん、明治政府が目をつけ始める前は…
そうです、アイヌの人々が住んでいました。
蝦夷地から北海道に改名され、
「開拓使」という役所を置くことによって
北海道の統治能力を高めたのです。
では、「開拓使」は北海道を統治するために
どのようなことを行ったのでしょうか。
まず、農地の開拓、交通網(道路、鉄道)の整備が必要です。
それには、人が必要ですね。
そこで、使われたのが、「屯田兵」
この「屯田兵」は、日本各地からも集められました。
そして、北海道に移住させ、北海道の開拓にあたらせたのです。
もちろん、仕事はきついですよね。
しかも、亜寒帯の地域です。
今のように、セントラルヒーティングなんてないし、
暖房器具なんて、焚火や厚着をするくらいで
寒さをしのぐことがどれだけ大変だったか、想像してみてください。
その上に重労働ですから。
屯田兵は、とっても大変なブルーワーカーだったのです。
しかも、北海道の面積、広いですよね。
皆さんも行ったことがあったら、
「ここ、日本じゃないみたい…」
なんて思うんじゃないでしょうか。
当然、労働力不足が懸念され、
囚人やアイヌの人々も駆り出されました。
ほら、みて!
囚人やアイヌの人々が…
なんで、アイヌの人々と一緒に、囚人?
彼らをきつい労働のために集められたんですか。
北海道の厳しい気候、厳しい労働…
そんな厳しい生活をしに、どんなに貧しくても
自分の大事な息子を北海道なんかに行かせたくないですよね。
しかも、自分から行きたいなんて人もいなかったに違いありません。
もちろん、ラインやFacebookやTwitterもない時代。
噂が噂をよんで、行きたがらない人が増えていたのです。
とはいえ、「屯田兵」の真摯な活躍により、
北海道の開拓は進んで行きました。
よかったですね。
ん?よかったって思っているのは、誰でしょう。
そう、明治政府です。
明治政府は、ロシアと日本の国際的な関係をにらみつつ、
この北海道の開拓事業を進めたのですから。
開拓が進めば、嬉しいに決まっていますよね。
ところが…です。
喜べない人々がいました。
そう、「屯田兵」としても頑張ったアイヌの人々です。
どうして?
北海道が便利なところになりつつあるのに…。
おかしいですよね。
なんででしょう。
農地が開発され、交通網も整備されはじめ、
アイヌの人々も生活が楽になるはずなのに…。
いえ、そうでは、なかったのです。
アイヌの人々は、狩猟や採集をしながら
自然を大切に生活をしていました。
しかも、紙を使わず、彼らの文化はすべて、口伝え。
それを「口承文化」といいます。
ところが、明治政府は、アイヌの人々に日本と同じ文化を持ちなさい。
と、アイヌの人々に対して、「同化政策」をとったのです。
つまり、「口承文化」であるアイヌの人々にとって、
明治政府の「同化政府」は、アイヌの文化の消滅を意味していたのです。
紙を使う文化が発達していなかったため、
アイヌの長老たちがこの世を去っていけば、
もう伝える手段がなくなってしまうのです。
しかもです。
「開拓使」が置かれ、開拓が進むにつれて、
自分たちの漁場や彼らの住んでいたところが奪われてしまったのです。
そのため、どんどん奥へ奥へと住むところを変えなければいけませんでした。
もともと北海道(蝦夷地)に住んでいたアイヌの人々。
開拓使より地の利はいいはずです。
あんなところに行きたくないのに…
というところでの生活を虐げられたのです。
しかも、明治政府の同化政策により、
アイヌの伝統的な文化も消え去ろうとしていたのです。
というわけで、アイヌの人々は明治政府に対して、
屯田兵という形で貢献しました。
しかし、アイヌの人々の本来の生活の姿は消されようとしていたのです。
皮肉なお話ですね。
北海道の開拓事業が進むにつれ、便利にはなっていった北海道。
その陰に隠れて沢山の犠牲者がいたことを忘れないことも大切ですね。
今回は、この辺でお話はおしまいです。
それでは、明治政府の事業の一つ「殖産興業」を説明してください。
そうですね。大体50字くらいでお願いします。
ぐだぐだ、言わないでくださいね。
それでは、どうぞ。
できましたか。
では、ここに、簡単に例を書いておきましょう。
この「殖産興業」は、日本全体にすすめられた事業です。
その理由は、もう書かなくてもいいですよね。
岩倉使節団の欧米視察の一つの目的である
不平等条約の改正が不成功に終わった理由…
そう、近代的な国家ではない日本、近代的な法の整備の整っていない
日本を欧米諸国が相手にしてくれなかったからなんです。
だから、「近代国家 日本」を誕生させよう!ということで
はじまった政策の一つ、それが「殖産興業」です。
この事業の主眼は、国力を増すこと、つまり、「富国」になりこと…
どういうことかというと…前置きが長くなりました。
産業に力を入れるため、まず、交通網の整備をしました。新橋-横浜間を皮切りに
日本の各主要な港と都市を結んだんです。
そして、通信手段の確保。
これによって、物の流通がスムースに行くようになったのです。
産業を各地に…ということで官営模範工場をつくり
日本の産業・経済を発展をさせた明治政府の政策、それが、「殖産興業」だったのです。
どうです、分かりましたか。
歴史的分野は、覚えることも沢山ありますが、
暗記科目ではないということ。
それを頭に入れてください。
なぜ?
事あるごとに書いておきます。
今回のお話は、
まず、日本の明治政府が明治維新から発足され、
どうしたら、近代国家がつくることができるだろう。
この問題について、お勉強しました。
君たちが明治政府だったら、どんな政策を打ち出すでしょうか。
長い鎖国政策をしていた日本。
海外がどのような動きをしているのか、
あの限られた国々から○○風説書からしか、
情報を得られなかった
井の中の蛙「日本」
それを打開するためには、
海外に使節団を送ろう。
というわけで、当時の明治政府の重要な人々を
欧米に行かせる政策をとったのです。
聞くより見たほうが早いですから。
2年間あまりもですよ。
見聞を深めたのは。
そして、
彼らが感じたこと…
そうそう
国力の充実。
だから…
国力を充実させて、富国になるために…
「殖産興業」という政策を打ちたてたのです。
こうやって、
まず、交通網、通信網の整備を手掛け、官営模範工場をつくったのです。
あとで、民間に払い下げられますが。一部、事件も起きちゃいました。
ほら、簡単でしょ。
経済や産業を発展させるときには、
どこの国でもどの時代でも、
この流れで政策が打ちたてられます。
そのガイドラインさえ、覚えていれば、
次にすることが見えてきますね。
今回の場合、日本全体のお話、
そして、アイヌの人々の生活を通しての北海道開拓のお話。
その目的は何度も書きました。
読むのが面倒だという人は、
どうぞ、飛ばしてください。
そうなんです。
国際関係に弱い日本でも、
ロシアとの関係を重要視した日本の明治政府は
北海道を開拓する必要があったのです。
その流れは、先ほど書いたことと同じです。
でも、ここでは他の地域とちがったことがありました。
なんでしたっけ。
先住民がいたということ。
アイヌという先住民は、
屯田兵として北海道の開拓事業に従事したにもかかわらず、
明治政府の同化政策により
自分たちの文化や生活の場を奪われようとしたこと
重労働による多大な犠牲者がでたこと…
そんなお話があったんだということ。
そんなことが、
筋道を通して考えれば、
自然とでてくるということです。
みなさんも、
覚えるのではなく、
何が起きたのか考えたことをもとに
史実を確かめると
歴史的分野を勉強しやすくなりますよ。
今回は、沢山のことを書きました。
とっても沢山のことがありましたから。
おっとちょっと、いろいろ忘れてました。
これから、書くことは、おまけというより、
教科書のはじに書いてあることです。
岩倉使節団の行路ですが、
1年10カ月を46名が欧米12カ国を公式訪問したルートがでています。
参考にしてください。
この中に、津田塾を開いた津田梅子もいたのです。このときの女子は5名でした。
そりゃ、行かせたくないですよね。
だいたいが外交官の英語のできる娘たちでした。
ハイカラですね。
鉄道の走っている様子も船と一緒にでていますね。
この鉄道を「陸蒸気(おかじょうき)」とも言っていました。
富岡製糸場で働いて人は、ほとんどが女子。
どうです、こんなところで働くのは?
でも、重労働でした。
ジャポニズム…
開国した日本。
海外に流出した日本の美術作品の数々。
浮世絵もその一つ。
日本の芸術の流行が海外で。
オランダ人の画家ゴッホは、日本の美術に影響を受けた一人です。
そして、彼が好んで真似した絵は、歌川広重の浮世絵でした。
大はしあたけの夕立は、ゴッホも歌川(安藤)広重も描いています。
というより…
ゴッホが歌川の絵を真似したんです。そう、模写といいますね。
すっごく、似ていますよ。
最後に、
屯田兵による開拓の写真があります。
そこには、
切り株が写っています。
その上には、木があったはずです。
切りたおしたんですよね。
どうやって?
斧、それとも、のこぎり?
チェーンソーは、当時、なかったでしょう。
全て、手作業。
しかも、木っていっても大木ですよね。
みて、人と切り株の大きさ。
しかも、木って重いですよ。
きこりの作業をしたことありますか。
ないですよね。
木を切るのも大変なら、切った木を運ぶのも大変。
しかも、切り株があったら、耕せないじゃないですか。
どうするんです?
この切り株。
抜くって言ったって、
歯を抜くのとは違いますよ。
簡単に抜けないんです。
昔の人は、よく考えたものです。
切り株の周りに、カボチャを植えて、
切り株を腐らせたそうです。
面白いですね。
力より、頭を使った開拓。
重労働の中にも、
いろんな苦労話があったはずです。
是非、思いを馳せてみてください。
それでは、今回は、この辺で、おしまい。