第053回 自由民権運動

『自由民権運動』への流れ
 
不平士族が起こしたこの自由民権運動の流れについて
 
ちょっと、見てみましょう。
 
教科書には断片的にしか説明されていませんので、
 
ここでちょっと詳しく説明しておきます。
 
簡単に言ってしまえば、いままで特権階級だった武士たちが、
 
士族となりますが、その特権がなくなってしまったことにより、
 
生活苦に陥ってしまったのが、この自由民権運動のきっかけです。
 
まず、四民平等…これは明治新政府が打ち出しました。
 
そして、国民皆兵。
 
ところが、国民皆兵してしまうと、
 
士族(武士)がそれまで独占していた『軍役』が
 
奪われてしまいます。
 
だって、国民皆兵ですから。
 
百姓みたいにポピュラーになっちゃうわけです。
 
全く、目立ちませんよね。
 
一般人になってしまった士族たち…
 
明治新政府は、まだまだ、この士族たちをいじめます。
 
『秩禄(ちつろく)処分』…
 
なんでしょうか、これ?
 
じつは、士族の経済特権である
 
世襲的に藩から支給されていた家禄が
 
打ち切られたことをいいます。
 
明治新政府の重い負担だった『家禄』。
 
それを思い切り、切り捨てたのです。
 
『切り捨て、御免!』でしょうか。
 
ちょっと、違いますね。
 
明治新政府としても、苦肉の策だったと思います。
 
内乱平定して、士族たちにあまり不平不満を言われたくない…
 
それが、明治新政府の本音(ほんね)です。
 
その証拠に廃藩置県のあとも、家禄支給を継続していましたから。
 
ところが徴兵令をだしましたよね。
 
そう、明治維新の三大改革の一つです。
 
常備軍が創設されました。
 
となると、やっぱり、『帯刀→対等』になっちゃったわけです。
 
キチンと言えば、『家禄は軍役の対価』という論理が使えないってことです。
 
しかも、1876年(明治9年)、明治新政府はもっとすごいことを決定してしまいます。
 
家禄の数年分相当額に利子をつけた公債を士族に与えます。
 
これを『金禄公債証書』といいます。
 
ここまでは、いい話ですよね。
 
ところが…です。
 
士族たちは、このお金をもらえる代わりに、
 
家禄と(維新の功績に対する)賞典禄が打ち切られたのです。
 
士族たちは、経済的特権も明治新政府に奪われました。
 
いきなり、士族たちの生活が苦しくなってしまったのです。
 
困った士族たちは、官吏や巡査や教員になったり、
 
公債を売り払って商売したり。
 
慣れない商売を始めた士族が、うまくいくことは少ないでしょう。
 
『士族の商法』なんて言われて、馬鹿にされたり…。
 
ちょっと、可哀そうですよね。
 
せっかく、明治維新で大活躍をした士族たち。
 
経済的にも、彼らのステータスもすべて、
 
こともあろうか明治新政府によって奪われ、
 
ふんだりけったりの士族たち。
 
不平不満はたまる一方です。
 
その不平不満は、士族の反乱として、
 
西日本を中心に起きることになります。
 
もっとも、明治新政府の立場で考えれば、
 
重荷になっていた士族の経費をいかに削減するか
 
それが、重要な政策の一部だったのです。
 
当時の政治のかじ取り、きっと大変だったでしょうね。
 
だって、あっち、こっちの反乱で、
 
鎮めるのにどうしたらいいのでしょうか。
 
現在平和な日本に生きている私にとって、
 
ちょっと、想像がつきませんよね。
 
それでは、ここで武士の特権が失われていった過程を
 
四民が平等になっていった過程と同時に説明してみましょう。
 
1869年6月 版籍奉還
 
公家や大名を華族、武士を士族(足軽以下は卒族)、
 
百姓・町人を平民としました。
 
江戸期の身分制の再編にとどまり、
 
華族と士族の経済的特権が維持されていました。
 
1870年9月 平民に苗字の使用を許可したので、
 
苗字の使用の特権があった士族は、この特権をなくしました。
 
1871年8月 散髪・廃刀の自由を認可し、
 
平民・士族・華族漢の結婚も認可しました。
 
そして、えた・非人の称を廃止し、晴れて平民になったんです。
 
奈良時代の『良民・賤民』から、だいぶたっていますね。
 
何年たったでしょうか。考えてみてくださいね。
 
でも、授業でもやりましたが、明治新政府は、『称を廃止』したのであって、
 
人々の気持ちの中の『えた・非人』を廃止したわけではありません。
 
1872年1月 全国戸籍調査をはじめて実施しました。
 
1873年1月 徴兵令が発布されました。
 
ということは…そうです。
 
士族たちは、特権の一つ、『軍役権』を失いました。
 
ますます、一般人の道を歩み続ける『士族たち』…
 
1873年12月 秩禄奉還の法を制定します。
 
一時金を支給することによって、
 
世襲の家禄や維新の貢献に対する章典禄の奉還を促すことになりました。
 
1876年3月 廃刀令公布
 
これで、士族のステータスをほぼ、失います。
 
そうです。『帯刀→対等』の道を歩み続ける士族たち。
 
1876年8月 金禄公債証書発効条例を公布します。
 
いままで、もらっていた給与が一時金をもらうことにより、カット!
 
これを『秩禄(ちつろく)処分』といいます。
 
多くの士族は公債利子で生活できるほどのお金をもらうことができませんでした。
 
言ってみれば、手切れ金、退職金…。
 
それで、一生を生活しなければなりませんでした。
 
だから、いろんな職業についたり、商売をはじめたり。
 
苦労続きの士族たち。
 
こうして、明治新政府への不平・不満がつもっていったのです。
 
それが、士族の反乱につながったというわけです。
 
語録です。
 
『秩禄』とは、明治新政府が
 
今までの石高に応じて華族・士族に与えた
 
『家禄』と『賞典禄』のことです。
 
『家禄』はその家に代々支給される給与のことです。
 
『賞典禄』とは、明治維新に功労
 
(たとえば、戊辰戦争や王政復古の論功行賞)のあった
 
公卿、大名および士族に対して、
 
政府から家禄の他に賞与として与えられた禄のことです。
 
『論功行賞』とは、功績を論じ、その程度に応じて
 
賞を与えることです。
 
 つまり、活躍した人にご褒美が与えられたのです。
 
では、『禄』とはなんでしょうか。給与のことです。
 
『金禄』とは、版籍奉還の前までは
 
大名や武士、公家などに
 
石高(米)で支給していましたが、
 
これを現金に換算して政府が支給することです。
 
 
 
 
士族たちの思いは先ほども書きましたが、
 
戊辰戦争は自分たちが戦って勝ち抜いたのに…
 
なぜ、苦しい生活を虐(しいた)げられるのか…
 
恩賞ではなく、仇で返された…
 
その思いは、
 
佐賀の乱、
 
神風連の乱、
 
萩の乱、
 
西南戦争など一連の士族の反乱へとつながっていきました。
 
この士族たちの思いは反乱という形で表されました。
 
でも、全国(西日本中心ですが)武力による反乱は…
 
限界があったのです。
 
そこで、方向転換をする時期が到来します。
 
板垣退助はすでに薩長閥とは袂(たもと)を分かち
 
「民撰議院設立建白書」を提出をするのです。
 
袂を分かつとは、もともと結婚して親から離れることでしたが、
 
現在では、考え方や価値観の違いから
 
今まで行動を一緒にしてきた人と別れることをさします。
 
現在の体制批判と、大久保利通をはじめとする
 
薩長の一部の有力者による独裁批判でした。
 
武力で倒せない相手なら…
 
言論で批判しよう!
 
いつしか、こう、考え始める人々が増え始めたのです。
 
じつは、先に述べた士族の反乱は、町民、大地主の間にも
 
共感する人々がでてきていました。
 
こうやって、士族の特権が亡くなることにより、
 
生活苦に陥り、不平不満が士族の反乱となって
 
現れ、『暴力は無力』という考えも芽生え始め、
 
『自由民権運動』が芽生え始めたのです。
 
ちょっと長くなってしまいましたが、
 
これが、『自由民権運動への流れ』です。
 
ちょっと、農民に視点を当ててみましょう。
 
当時、大半の人々が農民でした。
 
地租改正に反対だった農民たち。
 
有力な地主たちとともに、士族と共闘!
 
どんどん、自由民権運動の輪が広がっていったのです。
 
このころ、板垣退助はすでに下野していました。
 
明治14年の政変で、大隈重信まで下野してしまい、
 
自由民権運動の火ぶたは切られたのです。
 
この後、板垣退助を中心とした自由党、
 
大隈重信を中心とした立憲改進党ができました。
 
結党ラッシュです。
 
近代国家の体裁を整えた、
 
国会の開設と憲法の制定
 
この二つを柱に『自由民権運動』は、
 
武器による戦いから、言論の戦いに
 
移り変わっていくことになるのです。
 
いかがでしたか。
 
教科書には、あまり詳しく書かれていませんが、
 
これがわかると、
 
教科書の内容が、
 
あー、なるほど、そうだんたんだ!
 
ということになると思います。
 
是非、参考にしてください。
 
さて、本題です。
 
歴史的分野 第053回 自由民権運動
 
1873~1881年の出来事です。
 
ポイント:『自由民権運動』の広まり方。
 
 
 
その1 自由民権運動ってなんでしょうか。
 
『自由民権運動』とは、国民が政治に参加する権利の確立をめざす運動のことです。
 
つまり、国民は参政権を獲得したかったのです。
 
この『自由民権運動』は、明治時代前期に立憲政治の成立をめざした民主主義運動といってもよいでしょう。
 
なぜでしょうか。
 
当時、ごく一部の人たち…
 
おもに薩摩・長州・土佐・肥前の出身者が、
 
明治政府の実権をにぎっていました。つまり、専制政治を行っていたのです。
 
それを藩閥政治ともいいます。他の人々の意見を受け入れない、聞いてもらえない。
 
ヒーローは、たいてい、正義の味方。だから、みんなに愛されました。
 
月光仮面、ウルトラマン、スーパーマン、黄金バット…。
 
でも、正義の味方って、じつは、専制政治に似てるんです。
 
だって、悪を倒す正義の強い味方は、いいイメージですよね。
 
でも、悪を倒せばいいですけど、悪の側にたっちゃったらどうでしょうか。
 
自分の家を悪を倒すために倒壊なんてされたら、どうでしょうか。
 
いやーな気持ちになりませんか。手放しで喜べませんよね。
 
それと同じようなのがこの専制政治。
 
悪を倒すのはいいけれど、わたしの家を壊さないで!
 
そんな思いが募っちゃったのが、この専制政治と考えたらよいでしょうか。
 
明治時代、だれが専制政治を行ったのでしょうか。
 
その筆頭にあげられるのが、大久保利通、伊藤博文、山形有朋たちなのです。
 
いいことをやっていればヒーローですよね。
 
でも、他人の意見を聞かない人を見ていれば、だんだん『なんで?』なんて、ことになってしまう政策もでてきます。
 
そこで、自由民権運動、そして、護憲運動が生まれたのです。
 
この運動をしていた人々は、当時の政治を藩閥専制といって非難していたのです。
 
その2 自由民権運動のはじまりはというと…
 
 
明治六年の政変が起き、その後、政治の中心者は大久保利通でした。
 
内務卿となって、彼は、殖産興業を推し進めていたのです。
 
いわゆる近代化政策です。
 
 
ただ、先にも述べましたが、当時は藩閥政治。
 
一部の人たちだけで、決めていくやり方に不満を抱いて人がかなりいました。
 
その中の一人、板垣退助は1874(明治7)年1月に『民撰議院設立の建白書』を提出し、
 
 
国会の開設を求めるのです。
 
そして、彼は、立志社を結成して、自由民権運動を高知中心に進めていったのです。
 
 
その3 士族が反乱しました。
 
普通になってしまった士族たち…
 
 
帯刀が対等になり、散切り頭になり、武士としての特権がなくなってしまいました。
 
武士道…どこにいってしまったのでしょう。
 
 
独裁的な大久保利通の政治にも、飽き飽きしていた士族の面々。
 
西日本を中心に反乱をおこし始めました。
 
最大の反乱は鹿児島を中心に起きた西南戦争(1877)です。
 
士族の反乱は西日本を中心に、激化事件は東日本を中心に起きました。
 
 
西南戦争では、政府軍により、鎮圧されました。
 
明治維新の三大改革の一つ、兵制により集まった兵士たちの活躍がめざましかったということでしょう。
 
 
 
その4 どんどん広まる自由民権運動
 
いままで、武力による自由民権運動を繰り広げてきました。
 
 
でも、ちょっと待って!と考えなおします。
 
 
士族たちだけでなく、町人や地主たちにもこの運動が広まり、
 
今度は『言論』による戦いに戦法を変えたのです。
 
というのも、1878年に地方制度の改革が行われ、
 
府県に議会がつくられたのです。
 
議会の議員を通じて、自由民権運動が士族だけにとどまらず、
 
商工業者や地主も参加し始めたのです。
 
 
1880年、国会期成同盟が大阪で結成され、国会の開設を要求しました。
 
それに伴い、自由民権運動は憲法も制定しようという動きも見られ始めたのです。
 
たくさんの憲法草案ができました。
 
もちろん、この自由民権運動の思想の中核となったのは、
 
植木枝盛と中江兆民です。
 
一方、明治新政府は、意見が分かれていました。
 
大隈重信は、憲法の即時制定と国会の早期開設を主張していました。
 
ところが、1881年に開拓使の施設の払い下げ事件が起き、
 
民権派が明治新政府を激しく攻撃したのです。
 
伊藤博文は、明治新政府のことを考え、
 
民権派と結びつきが強いと言われていた大隈重信を追放して、
 
国会開設の勅諭をだしたのです。
 
つまり、10年後に国会を開きましょうと
 
約束をしたのです。
 
そして、自由民権運動の流れは、
 
武力 → 言論 → 政党の結成
 
という形で進んでいくことになるわけです。
 
板垣退助が党首となり、自由党が、大隈重信が党首となり、立憲改進党が結成されたのです。
 
授業でもやりましたが、言論戦となって、台頭したのが『川上音二郎』
 
彼は、政治家、俳優、落語家の三つの顔を持つ男でした。
 
彼は、『オッペケペー節』を寄席で歌うことで民衆に自由民権運動を広めました。
 
というのも、集会条例、新聞紙条例が出され、集会すら開くことが難しくなっていたのです。
 
当時、『自由』という言葉がはやりましたが、
 
きっと、自由になりたかったのでしょう。
 
それでは、今日はこの辺でおしまいにします。

 


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