第054回 大日本帝国憲法の誕生、帝国議会の開設

第054回 大日本帝国憲法の誕生、帝国議会の開設
 
19世紀後半のお話です。(1850~1900)
 
ポイント:憲法の特色、そして、憲法制定の準備について覚えましょう。
 
その1 憲法を制定するのにどのような準備をしたのでしょうか。
 
前回のところで、自由民権運動は、
 
武力→言論→政党結成
 
という流れでしたね。
 
ところがです。
 
・たび重なる政府の弾圧。
・1880年代の不況(経済が停滞して、生産や消費がにぶる状況)
・民権派が関与した激化事件(東日本中心)
 
こういった政情のなか、快進撃をみせていた『自由民権運動』も足踏みしはじめます。
 
その一方で、着々と歩を進める明治新政府。立て直しははかります。
 
国会を開く前に…すべきこと。
 
そうです。憲法を制定しよう!と動きはじめたのです。
 
明治維新は、近代国家をめざしています。
 
近代国家に近づくためには…
 
立憲国家になること…
領土を画定すること…
 
いろいろありましたよね。
 
ですから、『憲法制定』なのです。
 
伊藤博文…ヨーロッパに留学して、君主制の強いドイツ(プロイセン)の憲法を中心に学んで帰国し、
 
憲法草案を書き上げます。そして、まず…
 
1885(明治18)年:内閣制度をつくります。(日本の行政における最高機関)
 
もちろん、初代内閣総理大臣、いわゆる首相は彼、伊藤博文です。
 
首相:内閣の首長。内閣総理大臣の通称です。
 
初代内閣の構成を見てみましょう。
 
内閣総理大臣 伊藤博文(長州出身、45歳)
外務大臣   井上馨(長州出身、51歳)
内務大臣   山形有朋(長州出身、48歳)
大蔵大臣   松方正義(薩摩出身、51歳)
陸軍     大山巌(薩摩出身、44歳)
海軍     西郷従道(薩摩出身、43歳)
司法大臣   山田顕義(長州出身、42歳)
文部大臣   森有礼(薩摩出身、39歳)
農商務大臣  谷干城(土佐出身、49歳)
逓信大臣   榎本武揚(幕臣、50歳)
 
明治政府は、律令制の太政官制を国政に取り入れていましたが、
 
1881年の国会開設の勅諭を発表して、議会政治をはじめようと行政府を強化します。
 
そこで、この太政官制を廃止して内閣制度を新しく設けたのです。
 
大日本帝国憲法に、内閣総理大臣を決めるきまりがなく、
 
国務大臣とともに天皇が任命することになっていました。
 
そのために、内閣総理大臣は、明治時代には元老や重臣会議からの推薦により
 
選任、大正から昭和時代初期は、与党第一党の党首が推薦されて、
 
政党政治が行われたのです。
 
『伊藤博文(1841~1909)』のプロフィール
 
大久保利通が暗殺されたあと、政府の中心人物となり、
 
4回、内閣総理大臣を経験。
 
立憲政友会総裁として1900年に組閣、
 
政党政治への道を切り開いた人です。
 
もちろん、自らヨーロッパに渡り、各国の憲法を学んで、
 
日本の憲法の制定に力を注ぎました。
 
その2 立憲制国家
 
1889年2月11日:大日本帝国憲法が発布(1947年の日本国憲法が施行されるまで)
 
ちょっと、当時の様子を日本の医学の教育に従事していたドイツ人医師ベルツは、
 
次のように日記に書きとめました。
 
『面白いことに…だれも憲法の内容しらない』
 
明治維新の三大改革の一つ、学制がありましたよね。
 
でも、まだまだ、日本人の教育レベルは低かったのです。
 
だから…なんのことかチンプンカンプンだった人が大勢いたのです。
 
ところで、この『大日本帝国憲法』を説明しましょう。
 
発布されたのが1889(明治22)年。もちろん、日本の最高法規です。
 
天皇が首相に渡し、国民に与える形で発布されました。
 
施行は、翌年の第1回帝国議会の開催のとき。
 
天皇が元首として統治します。
 
天皇の権限は…帝国議会の召集と解散、軍隊の指揮、条約の締結、戦争の開始など…。
 
帝国議会は、二院制(貴族院と衆議院)。
 
予算や法律の成立のために議会の同意が必要とされ、内閣は議会の協力が必要でした。
 
でも、各省の大臣は、天皇に対しここに責任を負うので、議会との関係は不明確だったのです。
 
国民 = 臣民
 
臣民は、法律の範囲内で言論や出版、集会、結社、信仰などの自由などの権利が認められました。
 
では、『帝国議会』とはなんでしょうか。
 
明治時代の中ごろ~昭和時代の初期の日本の国会のことです。
 
大日本帝国憲法に定められています。そして…アジア初の立憲制国家になったのです。
 
つまり、時代の先取りをしたのです。やったー!と明治新政府は、思ったことでしょう。
 
貴族院:皇族や華族、天皇が任命した議員からなりたっています。
 
衆議院:国民が選挙した議員からなりたっています。
 
この二院制で両院は対等。ちなみに、衆議院銀の選挙権が与えられたのは…
 
直接国税を15円以上おさめる25歳以上の男子のみ。
 
女性の参政権が認められたのは…ずっと、あとです。つまり、『制限選挙』でした。
 
しかも、被選挙権がある人は…
 
直接国税を15円以上おさめ、30歳以上の男子です。
 
女性は…まだまだ、政治に参加できませんでした。学制により、
 
お勉強を6歳のときからできるようになったばかりですから。
 
それにしても、投票するとき…
 
住所、氏名を記入して押印です。つまり、秘密選挙ではないです。
 
だれがだれに投票したのか、すべてわかるようになっていました。
 
みなさん、どうですか。こういう選挙制度。
 
現在、ブラジルでは、選挙は義務付けられていて、投票しないと、
 
さまざまな制約を課せられます。ところ変われば…ですね。
 
人数としては、45万人。総人口の約1.1%。少ないですね。
 
しかも、投票所には…複数の官憲が複数人で監視です。
 
緊張するでしょう。しかも、第1回衆議院議員選挙への有権者の関心が高く、
 
投票率なんと、約94%。すごいですね。今の投票率と比較してみてくださいね。
 
1890年11月29日:第1回帝国議会が開かれました。
 
この当時、自由民権運動の流れをくんだ野党(民党)の議員が多数をしめていました。
 
憲法の制定、そして、民法、商法などの公布が相次ぎ、法制度が整備されていきました。
 
憲法発布の翌年、1890年、『教育勅語』がだされました。
 
この『教育勅語
 
天皇の言葉…明治政府が教育理念を示しました。
 
忠君愛国、教育の柱…国民の精神的、道徳的なよりどころにされたんです。
 
この当時、文部省が、全国の学校に配布、学校儀式などで奉読させていました。
 
そのなかにある『十二の徳目
 
01孝行:親に感謝する「お父さん・お母さん、ありがとう」
02友愛:兄弟仲良くする「一緒にしっかりやろうよ」
03夫婦の和:夫婦で協力する「二人で助け合っていこう」
04朋友の信:友達を信じあう「お互い、わかっているよね」
05謙遜:みずから反省する「ごめんなさい、よく考えてみます」
06博愛:博愛の輪を広げよう「みんなにやさしくする」
07修学習業、智能啓発:知徳を磨く「進んで勉強し努力します」
08公益世務:公のために働く「喜んでお手伝いします」
09遵法:ルールに従う「約束は必ず守ります」
10義勇:祖国に尽くす「勇気を出してがんばろう」
11伝統継承:伝統を守る「いいものは大事にしていきます」
12率先垂範:手本を示す「まず自分でやってみます」
 
どうですか?この内容。いろいろ、教育勅語のことを調べてみてくださいね。
 
さて、それでは、『立憲制国家の成立の流れ』をまとめましょう。
 
1885年に内閣制度ができました。そして、初代内閣総理大臣になったのが伊藤博文。
 
1889年に大日本帝国憲法が発布されて、二院制の帝国議会が開かれました。
 
そして、1890年に衆議院議員選挙が行われ、議会政治が始まったのです。
 
日本は、これで、アジア初の立憲制国家になったわけです。
   
今日は、この辺でおしまいにします。

 


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