第055回 欧米列強の侵略と日本の条約改正
19世紀後半のお話です。(1850~1900)
ポイント:欧米列強がどのように侵略し、日本の条約改正はできるのでしょうか。
その1 列強、そして、帝国主義
前回から、時は流れてません。引き続き19世紀後半のお話です。
でも、目を欧米に向けてみましょう。
ドイツやアメリカで急速に発展した資本主義。
いろんな産業が成長しました。
製鉄、機械、鉄道…。
この時期の経済を支配しはじめた『資本主義』。
労働者と雇用主。その関係の差が開きます。
欧米列強 + フランス +ロシア = アジアやアフリカへの経済的な進出。
目的:資源や市場を求めること。
軍事力に物を言わせてほとんどの地域を植民地としたのです。
『帝国主義』…
19世紀後半、欧米の資本主義諸国が軍事力にものをいわせ、
アジアやアフリカの原料や市場を求め、なおかつ、経済的な自由な活動を行って、
その国の経済も手中に入れ、植民地や自国の勢力範囲を広げた動きのことを『帝国主義』といいます。
その2 条約改正、できる!
日本は、不平等条約を改正することによって、
欧米と国際的に対等になりたい、という気持ちから、
近代化を推し進め、法律の整備をしてきたのです。
『条約改正』…
江戸時代末期に江戸幕府が結んでしまった、あの条約…
全部、不平等でした。1858年に結んだ通商条約(安政の五カ国条約)。
その五カ国とは、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスです。
そして、その不平等というのは…
外国に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がない!
これでした。明治新政府は、岩倉使節団を欧米に派遣したり、
欧化政策も進めたり、条約改正に向けての交渉を進めたり、
でも、結局…
近代的な法律がない!
と、断られていたのです。前回、勉強したように、近代的な法律:大日本帝国憲法を制定したのも、
じつは、条約改正のためだったというのも一つの理由なのです。
近代国家に近づくためには、自国が近代国家になること…
それこそが、近代国家への近道だったのです。
大日本帝国憲法が施行されたことを受け…
イギリスが条約改正の交渉に応じるようになったんです。
日清戦争を目前にひかえた1894年、陸奥宗光外務大臣が…
日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃が実現しました。
このことをきっかけに、他の国とも、条約改正が進んだのです。
長ーい道のりでした。
このことから、世界から…
日本=『近代的な法治国家』
と認められるようになったのです。
つまり、日本の地位が欧米と国際的に対等になったということです。
今日の公式:
① 日本=『近代的な法治国家』
② 日本の地位 = 欧米の地位
どうです。ちょんまげ→散切り頭の士族たち。打ちひしがれていましたよね。
日本の明治維新の目的の一つがながーい、ながーい年月を経て、
そして、さまざまな人々の努力を経て、
達成されたのです。『条約改正』という大仕事を成し遂げた明治新政府だったのです。
これというのも…
苦肉の策として、江戸幕府が不平等条約に調印してしまったことが発端でした。
その事後処理をしたのが明治新政府ということです。
『条約改正』の世論を高めた事件:ノルマントン号事件
1886年、イギリス船ノルマントン号が和歌山県沖で沈没。
日本人乗客全員死亡。イギリス船員は助かり、その船長は、
軽いばつのみ。つまり、イギリスの領事裁判権を認めていたからです。
日本国民も黙っていませんでした。『条約改正』への火ぶたが落とされた一つの事件となりました。
でも…そのことを描いたビゴーの絵。確かに救命ボートには、ユニオンジャックがあるのですが…
遠くに見える沈没していく船には、フランスの国旗が掲げられています。
さすが、ビゴーの風刺絵と言わざるを得ないでしょう。
さて、『欧化政策』も条約改正の一環として明治新政府が行った政策です。
どういうものかというと…
井上馨外務卿(大臣)のとき、1883年に官営の国際社交場『鹿鳴館』が完成しました。
舞踏会を積極的に開催し、外国領事を招待しました。それが、欧化政策だったのです。
といっても、洋服を着た日本人の姿…
西洋人には、どのように映っていたのでしょうか。きっと『こっけい』だったことだと思います。
ところで、鹿鳴館は、東京都千代田区内幸(うちさいわい)町にありました。
条約改正にいち早く応じたのは、アメリカ。
1878年に関税自主権の回復に合意をしました。
ところが、イギリスなどの賛成が得られませんでした。
領事裁判権に関し、日本の裁判に外国人判事を参加させるなど
交渉の内容が知られてしまい、国内からの激しい反発をうけ、
そして、失敗に終わったのです。しかし、前述の通り、うまーく『条約改正』ができたのです。
めでたし、めでたし。
というわけで、話が前後してしまいましたが、
『陸奥宗光(1844~1897)』のプロフィールをみてみましょう。
明治時代の政治家です。紀州藩(和歌山県)出身。
幕末に、坂本龍馬のつくった海援隊に加わった人。
明治に入り、政府の役人となりましたが…
西南戦争のとき、西郷軍と連絡をとっていたため、投獄されました。
伊藤博文からヨーロッパに留学することを勧められ、留学。
帰国後は、外務省に入りました。第1回衆議院議員選挙に当選、
農務省大臣、外務大臣を歴任。
領事裁判権の撤廃に成功した人。
日清戦争が終わり、講和会議に伊藤博文とともに全権として出席、
下関条約に調印した人です。
『法治国家』とは、国民によって民主的に制定された法を、
国家の基盤とする国家のことです。ということは…
国家の活動は、すべて法の下に行わなければならないということです。
自分勝手なことをしだした国家は、『法治国家』というより、
『放置国家』になっちゃうかもしれませんね。
『放置国家』は、覚えないでください。ありませんから。
3 東アジアでは…:このあたりから、『日清戦争』への道すじがつくられていきます。
勢力争いがずーっと続いていたのです。
朝鮮半島を中心に、日本、朝鮮、清の間で色々な争いが起きていました。
当時、日本は日朝修好条規を朝鮮と結びました。覚えていますか。
是非、復習してくださいね。
清はというと、朝鮮への宗主権を主張していました。
宗主権 = 宗主国がそれに従う国(従属国といいます)に対して持つ権限
まず、宗主ですが、その地域の覇権をにぎる人のこと。
そして…一般的に『内政干渉』はできません。
ほかの国の政治に口出すな!
ということです。
しかし、従属国ということは、多少なりとも関係が宗主国とありますよね。
だから、内政に干渉できるかどうかは宗主国と従属国との関係でさまざまです。
ふつう、従属国の外交権を宗主国がにぎっていることが多いです。
というわけで、清の主張は…
清:宗主国 朝鮮:従属国
清は、この関係でいたーい!日本は、そんな関係、痛ーい!
ということです。
では、朝鮮国内では、
『親日派 vs 親日派』 の対立が激化していました。
親日派:明治維新にならって、近代国家になりたい!
親中派:清との関係を重視して、欧米に対抗したーい!
そんななか1884(明治17)年に甲申政変が起きます。
日本の協力を得て国内を改革しようとする
独立党の金玉均(キムオクキュン)らによる
クーデター、それが甲申政変です。
甲申政変と呼ばれるこの事件では、
清国が朝鮮に軍隊を送り鎮圧したため、
このクーデターは失敗に終りました。
この甲申政変によって、
東アジアでの勢力争いはどうなったかというと…
日本:後退
清(中国):前進
勢力が後退した日本は、清に対抗しようと、
軍備増強を図ります。
いまでは、反対運動が起きそうですよね。
当時の日本では、
フランス:インドシナを占領
ロシア:シベリア鉄道の建設
いずれも、アジアに勢力を伸ばすための事柄です。
これらに肩を並べるべく
『朝鮮に進出しないと…日本の発展はない!』
それが、日本の世論でした。
ちょっと以前に勉強した『征韓論』がまだまだ、続いていた…
ということでしょうか。
今日は、この辺でおしまいにします。