この話題でちょっと、土曜勉強会のとき盛り上がった。
というのも、情報のデータ化の作業をしている方から、『オリジナルがあるから大丈夫』と言われ、
口論になったという。というのも、『オリジナル』がなくなってもいいように『データ化』しているのだろうと、
主張する方がいた。『情報理論』をはじめ、情報に詳しい方だったら、きっと、疑問に思うことだろう。
まず、『情報のデータ化』の主旨を全く理解されていないからである。
情報をデータ化するということの主旨は、あくまでも、『情報をデータ化して保存しやすい状態にしておくこと』であり、
その結果、整理しやすくなるのである。皆さんも、経験があると思う。本や雑誌をどんどん買って、
それをあっちこっちに置いてしまい、いつの間にか、書物が乱雑に置かれてしまっている部屋になり、
『しまった』と思うことは、よくあることだ。きちんと、整理をして、この本はここ、この雑誌は、あそこと整理された部屋で
過ごすことができたらよいのだが、なかなかそうはいかないのが人生である。
しかも、こういった書物は、がさがある。大きいのだ。しかも、その大きさが、まちまちで、片づけづらいのである。
ほんのちょっとで、本棚に入らないこともよくあるだろう。ダジャレを言っている場合ではない…。
最近、本や雑誌の大きさの傾向が昔と今では、変わっていると、本の整理をするプロはいう。
図書館で働く人がいっていたのである。本棚を整理するとき、本棚の本を置くところの間隔も大切ですと。
ちなみに、本棚の大きさはいろいろあるが、話をまとめてみると、幅を65Cmにするとよいということがわかった。
奥行きはというと、21cm、本棚の高さは、2m30cmくらいが高くもなく低くもなく手ごろだという。
サンパウロでは、天井まで、びっしりになってしまうだろう。その辺は、臨機応変に対応すればいいと思う。
というわけで、ただ単に、本を整理するといっても、大がかりなのは、ここまで書かなくても、容易に想像がつくだろう。
本棚をつくってみようと思う方は、この寸法がいいらしいので、ぜひ、お試しあれ。話をもどそう。
本棚を使うその情報源である『オリジナル』の本があるからこそ、『データ化』をする意味があるのである。
この『データ化』は、整理と保存を容易にするというのが、本当のねらいであり、『オリジナル』が消えてしまえば、
『データ化』はできない。『データ化』をしても、それは、安心できないのである。
なぜなら、それは、『データ化』された『オリジナル』は、あくまでも、『複製(コピー)』であるからだ。
つまり、『オリジナル』にある情報が欠落している部分があるということ。そのことを理解しておかないといけないのである。
また、それが、わからないのである。科学や技術の進歩により、『複製(コピー)』は、
『オリジナル』と見劣りをしないようになったのは事実である。
しかしながら、さまざまな細かい点で『オリジナル』と違うのである。
立体か平面かでも違うだろう。本を『データ化』したら、その本の厚みは感じることができないし、
紙や印刷のにおいも感じることはできない。また、元原稿や芸術作品にいたっては、
オリジナルには、作成者の思いがたくさん詰まっているはずなのである。だからこそ、
『複製(コピー)』=『オリジナル』ではない。
『情報』をデータ化する意味が全くわかっていない例である。これを説明するのが意外に難しく、納得されなかった。
わたしは、インターネットの普及ととともに育った若者ではない。だからといって、現在の情報世界を知らないわけではない。
さまざまな弊害もあるが便利な情報世界。インターネットを駆使してなんでもやりのける若者。
いまの若者は、『情報』について、私以上の知識を自然に身に付けている。素晴らしいことである。
その反面、『物質』のありがたさを知っている人、この『同人誌』が本として、出版されることを切望される方々とは、
考え方の隔たりが否めないのは当然のことである。本の厚み、実際に手にとって、
読むという行為にも重点を置いて考えるということが、いまの若者には、きっと不合理に思われることだろうとわたしは、思う。
わたしも、じつは、そう思う。こういった文章は、書いても、書いても、たかがしれているのだ。え、何がたかが知れてるの?
と思われる方に説明するが、『情報量』がたかが知れているのだ。
先ほどから書いているわたしの文章は、もう、このノートブックとにらめっこをして、だいぶ時間が経過しているのだが、
情報量としては、微々たるものなのである。だから、『データ』として残す方がずっと、
スペースもいらず、『編集』もしやすいし、『誤字』もその都度、修正が簡単である。
原稿用紙に何回も書きなおさなくてもよい、便利な世の中になった。効率が良い仕事ができるというものである。
しかも、『本』として、保管する本棚のスペースを気にしなくてもよいのである。
それより、バックアップだけしておけば、『データ』として、後世にまで、簡単に残すことができるのである。
しかし、本を出版するとなると、話は別である。本の構成から始まって、文章の校正や、ページのレイアウト、
表紙のデザインなど、何回となく、打ち合わせをする必要がでてくるだろう。
しかも、この会のメンバーは、十名前後である。本が誕生するまで、大変な作業になることは、目に見えている。
しかも、私は、今年、年末に向けて、かなりのハードスケジュールをこなさなければならない。
もう、だいぶこなしたのだが、大変な1年を経験している私である。
だから、いま、こうやって、休みのときを利用して、原稿を仕上げなきゃと頑張っているのである。
暑くて、雨の降らないサンパウロの部屋の片隅でパチパチと原稿をタイプしながら、ノートブックとにらめっこをしているのである。
こういった作業を省くためにも、というより、先延ばしにして、まずは、ネット上での反応をみて、
そのあと、ゆっくり、出版作業に取り掛かる方が、ずっと、やりやすいし、作業も楽チンなのである。
実際、メンバーのある方からは、年頭の抱負を述べるとき、私が『本を書きたい』というと、
ネット上で反応を見てみてはどうかというご意見をいただいた。それが、である。
今回は、本といっても、100ページ程度の小冊子になるこの『本』が出版されるはこびとなったのである。
だからこそ、ちょっと、異論を唱えたのであるが受け入れられなかった。といっても、多勢に無勢なので仕方ないといえば、仕方がない。
なにはともあれ、『情報のデータ化』の主旨の説明に骨が折れてしまうのには、ちょっと、閉口してしまった。
わたしの正論は通りづらい『土曜勉強会』。いままでの積み重ねを大切にすることも大切である。
ただ、みなさんが、こうして、文章を『本』として物質世界に生みだすか、情報世界に『データ化』として、送りだすのか。
こういった話題で盛り上がってしまった理由は、こんなところにあるのである。
( 次回に続く )
—————