こっそり、お披露目 『同人誌『土曜勉強会 2014年度』に寄稿原稿』 第9弾 私のプロフィール ~自己紹介~

2014年11月16日 06:39

やっと、わたしの原稿割り当ての最終部分になった。

原稿用紙で結構な枚数になっている。

この調子だと、きっとどこかを削る必要があるかもしれない。大は小を兼ねるので、どんどん、書き進もう。

終わりが見えたので、うれしい筆者である。

読者の皆さんは、自己紹介をするとき、どんな内容を思い浮かべるだろう。

大抵、名前、出身、学歴(伏せることが多い)、職歴、好きなこと、趣味などだろうか。とにかく、書き始めよう。

本名 武田 真一(たけだ しんいち)

わたしの名前は、山本有三の『真実一路』からつけられたそうだ。わたしの父がこの本を好きだったからだ。

わたしは、引っ込み思案で積極性に欠ける。そのくせ、みんなからは好かれるタイプで、

それが、どちらかというと、嫌でたまらない。なんでも、律義にこなす方だが、性格はおっとりとしており、

よくいえば、おおらか、悪く言えば、ルーズ。そんな私である。

人の前に立って話すのが苦手であるが、そんな私が教鞭をとっている。人生とは、皮肉なものである。

 

誕生日 十二月十四日 : 西暦または和歴を書きなさいといわれたが、不詳ということで、ご勘弁願います。

討ち入り(忠臣蔵)の日である。とくにこの世にでてきたときの記憶もないが、帝王切開でこの世にデビュー。

そして、母乳を飲むこともなく育った。しかも、腐敗乳を飲まされ、瀕死の重症になったという逸話を持つ。

両親はあきらめていたらしい。そして、歩行器を使うようになった私は、土間に転落。

あわてて、駆け寄った両親が見たものは、わたしの割れた額から噴き出る血。

おかげさまで、誰も気がつかないが、現在でも、わたしの前頭部にちっちゃな禿がある。

もっとも、年々、髪が減っていくので、そっちの方が話題になることが多い。

紆余曲折の人生をちっちゃな時から歩むことになる。とにかく、病弱なわたしだった。

熱を出しているほうが多く、一度は急性肺炎で入院することにもなった。

そのとき、わたしは、看護士さんのことが大嫌いになる事件と遭遇するのである。

もう、これ以上、書いていると、同人誌に書いているということを忘れ、この記事の意図するところが薄れてきてしまう。

これでは、自己紹介ではなく、わたしの伝記になってしまうのでこの辺でやめておく。

ちなみに、わたしの年齢は想像に任せたいので、本人をじーっとみて、判断してください。

それが、わたしの年齢ということで、結構です。

わたしにとって、大切なのは、年齢ではなく『その人』ですから。

 

血液型 RH(+) 0型

出身地

東京都大田区大森に生まれ、町田市で育つ。片田舎であった町田市はわたしの故郷でもある。

中学生のとき、神奈川県津久井郡(現 相模原市)に引っ越す。片田舎からド田舎に移り住んだのである。

そして、現在は、ブラジル在住である。

座右の銘(モットー)

為せば成る、為さねば成らぬ。

成る業を成らぬと捨つる人の儚(はかな)さ (武田 信玄)

 いきなり、真面目な文章を書いてしまった。一応、わかっているとは思うのだが、説明を加えることにする。

この文章は、武田信玄のものである。強い意志を持って取り組めば、何事も必ず実現できるものである。

反面、何事も取り組まなければ実現できない。そして、 努力すればできることであっても、

最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがあるということを知っていてほしいという

武田信玄の言葉が私は好きである。何事も、あきらめずに、最後まで、やり通すことが大切であり、

あきらめたら…そこで、試合が終了したのと一緒であるということ。

すべてに対して、『あきらめない』精神でいたい気持ちのわたしにピッタリな武田信玄の言葉である。

同姓だからというわけでもないが、私の好きな武将でもある。

現在の職業

現在、サンパウロ日本人学校において、教鞭をとっている。中学部では『社会』、小学部では、『図工』を教えている。

教鞭をとる以前は、日系企業でドライバーをしていた。あまりの給料の安さに、タクシーの副業をしたいと、つくづく、最近、思っている。

家族構成(私的すぎるかも…)

  千代子セリア(日系ブラジル人 三世)

長女 実(みのり)シンチア

長男 幸路(こうじ)ドゥグラス

じつは、長女、長男の名前は『真実一路』に由来している。

このことについて、不服申し立てが妻から出されたのは言うまでもない。妻の名前の一字も使っていないからである。

結婚当初、4人、子どもがほしかった私。そんな私は、希望に満ちあふれていた。

もちろん、妻もだろう。『だろう』というのは、お産は結構、つらいものらしいので、

女性にとっては、あまり、ありがたいものではないので、『だろう』なのだ。

結局、実際には、育てることができたのが2人だけ。初産の子は流産してしまい、

その後、間髪いれずに、二人を出産してもらった。そして、結婚公約である、もう一人…と頑張りたかったが、

健康、体力に限界を感じ、断念と相成った次第である。したがって、妻の名前を利用する機会を逸してしまった、

これが、物事の成り行きである。『仕方がないでしょ』と言えば、また、妻の怒る顔が見える。

それは至極当然のことであることもわかる。結婚も、もう二十年を過ぎ、そういったことも、

当たり前のように、いつの間にか、対応ができるようになってしまった。

妻の側からしてみても、同様なことが言えるに違いない。わたしの行動を一部始終、見透かされている昨今である。

趣味

・星を眺めること。

何と言っても、星は、ロマンチックである。何度みても、心がワクワクする。理由はわからない。

しかも、視力がよくなる。一石二鳥なのである。南米に渡り、初めて見た南十字星を見たときのあの感動は今でも忘れない。

・旅行をすること。

暇とお金があれば、旅行をして、ぼーっとしていたい。これは、趣味というより、願望かもしれない。

一、本を書くこと。←これ、夢ではなくなったみたい。

一、南極でペンギンと会い、隕石拾いをすること。

合い言葉(愛ことば)

地球のどこかで会いましょう。

サンパウロ日本人学校で働くことになり、いつの間にか、4年がたってしまった。

さまざまな子どもたちと接するなか、わたしの心のなかから、日本人であることよりも地球人として生きたいという気持ちが多くなった昨今。

本帰国や転勤で、本校を去っていく子どもたちをみて、ふと、頭によぎった言葉…それが、『地球のどこかであいましょう』だったのである。

南米で生活をすることになった理由

日本に居たら、だれしもが聞きたい質問だろう。いつの間にか、南米に住みついてしまった。

日本では、プログラマーとして活躍していた。人間関係にも、仕事にも疲れ果てていた私。

しかも、農業に興味があっても、その分野に進学を許されなかったなどの理由から断念。

そんなとき、目にとまった新聞広告。『南米移住を体験してみませんか』だった。

それが、南米に来るきっかけとなったのである。

当の本人、まさか、南米で結婚して、子どもをつくって、なんてさらさら思っていなかった。

それが、二十年以上もいつくことになるとは、誰が想像をしただろう。わたしは、日本に帰るつもりだった。

日本に帰って、まともな仕事に就こうと考えていた。いまでも、遅くないかもしれない。帰ろうかな。

そんな、わたしの優柔不断な性格も手伝い、いまだに、南米に存在しているである。

ただ、私の子どもたちも大きくなり、そろそろ、日本に顔を出したい気分でもある。

それより、世界のさまざまな国に行ってみたい。ちょっと、エボラ出血熱が蔓延している世の中、そんな勇気もでない。

暑く雨の少ないこのブラジルにボヤきながら、一生を過ごすことになるのでは、ないだろうか。

幼少のころ

 家の周りは田んぼだった。自然と戯れ、春には、つくしをとり、セリをとり、秋には、栗を拾い、栗ご飯を食べるのが楽しみだった。

大好きなイチジクを熟れるのが待ち遠しかった9月をいまでも忘れない。

                                              ( 次回に続く ) 

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