つまり、小西行長らがすべて仕組んだことです。
秀吉の要求『七か条の条件』が明に伝えられず、
『大明皇帝』の称号がほしかったにもかかわらず、
『日本国王』の称号しかもらえなかったため、秀吉が激怒して第2次朝鮮出兵となったのです。
2人の使節は、明皇帝からの国書、封王の金印と冠服を秀吉に捧げました。
これらの品は、明皇帝から秀吉に対する処遇を暗に示す物でしたが、
秀吉はもちろんそれに気づきません。
翌2日、冊封正使・副使を大坂城に饗応しました。
秀吉は明皇帝から贈られた王冠を着け、赤装束の服を着て上機嫌だっでした。
酒宴のあと猿楽などが催され、秀吉にしても上々の首尾と感じていたところでした。
宴が終わり、秀吉が明皇帝からの国書を僧・承兌に読ませたところ、
「特に爾を封じて日本国王と為す」とあるだけでした。
秀吉がさきに明に要求した七ヶ条の条件については何もふれられていませんでした。
秀吉に贈られた赤色の官服とは、「皇帝」よりも格の下がる「国王」のものだったのです。
かつて秀吉が突きつけた要求は
日本・明国双方の講和推進派の手によって、
とにもかくにも講和を結ぶために「偽の降伏文書」に偽装され、
講和を実現するためにへりくだった態度で
講和交渉に臨んだ結果といえば妥当、もしくは寛大ともいえる処置でしたが、
それらはすべて秀吉は知る由もなかったのです。
この工作の首謀者のひとりでもある小西行長は
事前にこの国書の「日本国王」という部分を「大明皇帝」と読み替えてくれるよう
承兌に頼んでおいたのですが、承兌はそのまま日本国王と読んでしまったのです。
秀吉が激怒したのは、簡単に想像できますね。
この秀吉の激怒が再び朝鮮への出兵が命令されることになったのです。
第2次朝鮮出兵…すなわち『慶長の役』のはじまりなのです。