一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、
1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼んでいます。
しかしながら、「鎖国」は明治以降、頻繁に使われた言葉です。
最近では、制度としての「鎖国」はなかったとする意見が多く、しかも、いつの日か、
いつの日か、鎖国という言葉が教科書から消える日がくるかも知れませんね。
1639年に、第五次鎖国令がだされたのをひとつの区切りとして1639年からと
しているのです。ただ、1641年に、オランダ商館を平戸から出島に移すことにより、
鎖国の体制が整ったとするのが教科書に書いてあります。
中学校や高校では、1641年を鎖国の体制が整ったとするのがよいでしょう。
また、鎖国令とは、江戸幕府がだした外国との通交・貿易を禁止する一連の法のことです。
寛永10(1633)年~寛永16(1639)年:5回、出されています。
この鎖国令が5回目にだされたのが、この1639年ということになるわけです。
ただ、この鎖国令、実は次のような内容です。
1633年 第一次 鎖国令
奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年 第二次 鎖国令
第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年 第三次 鎖国令
中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。
東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。
1636年 第四次 鎖国令
貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、
残りのポルトガル人を出島に移す。
1639年 第五次 鎖国令
ポルトガル船の入港を禁止。
それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。
というわけで、先にも述べたように、『鎖国』という言葉が使われ出したのは、明治以降。
おかしいですよね。でも、このように、『鎖国令』という命令やきまりがあったわけでは
なく、鎖国政策の一環として、さまざまな政策を江戸幕府が行ったということです。