「えた」という言葉は13世紀からあります。
「天狗草紙」(1296年)にでてきています。
公の文書、つまり、公文書には、1644年に江戸幕府が書いています。
935年の本にも「恵止利(えとり)」としてでてきています。
穢多は『けがれがおおい』と書く通り、
屠殺(とさつ)などの職についている人々の総称になったのです。
もともとは、鷹(たか)を飼うための餌をとる職業の人々のことを
言っていたそうですが、
それが転じて、穢れの多い、殺生の仕事をする人々を指すようになりました。
もちろん、身分制度として確立したのは江戸時代のことですが、
それ以前にも「穢多」と呼ばれる人々は存在しました。
「身分制度が確立した」というのは、
「いままであやふやでなんとなくあった身分を江戸幕府が制度化して明確にした」
ととらえるのが自然だと思います。
いろんな文献に「穢多」が登場するところをみると、
江戸時代以前から彼らは存在していたという風に考えた方がよいでしょう。
お隣り、中国の律令をまねて作った戸籍に良民、賤民のころから
この「穢多」はいたそうです。
穢多といえば、あの河原者も同じだそうです。
有名な庭園を造った15個ある岩が14個しか見えないのを作った人もその一人です。
歴史の教科書に出ているので読んでみましょう。
職業の違いもありますが、住む地域も限定されました。
また、宗教的にも仏教では、
殺生を禁止していますし、日本の神道では、血を穢(けが)れとして嫌っていたので、
穢多の人々を軽視するような下地があったのです。
それが、一応、身分制度はなくなりましたが、現在に至っても残っているのです。
それが、同和問題です。
文献にはあるのですが、どの地域に穢多が住んでいたというのは、
一切公表されないです。人権にかかわりますから。
ただ、昔から住んでいる人たちは当然、知っていますから、
「あそこの人と結婚はするな」などの意識がいまだに残っているのです。
いずれにしても、日本は動物の死体を扱う職業に対して忌まわしむ考えがあるので、
このような差別の問題が起きてきたのです。
以上、穢多、非人がいつからなのかの説明にちょっと、
付け足してしまいましたが理解いただけたでしょうか。