質問箱
まず、終戦記念日を法的にそして、厳密に考えると…
1952年4月28日です。
つまり、サンフランシスコ講和条約が発効し、
日本が独立国家としての主権を回復した日とするのが妥当でしょう。
では、1945年8月15日は、どんな日でしょう。
昭和天皇が国民に対して、
これ以上の戦禍の拡大を避けたいという思いから戦争はやめますと伝えた日です。
そして、昭和天皇が戦争の終止符を付けた形になります。
これは、玉音放送で流され、国民が正座して聞いているシーンを
みたことがあると思いま
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天皇は、神武天皇から?という疑問がでてきますね。
今上天皇は、第125代です。
そして、たいていの教科書には、欽明天皇 (第29代)から系図の読み方に現れています。
では、第1代はというと…神武天皇のはずです。
資料集などには、応神天皇 (第15代)から表記されています。
『神武天皇』が第1代なのですが、そのことは最近、全く触れられていません。
なぜなのでしょうか。
実は、戦後の占領政策によるものです。
神社の解体、
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イギリス国民にとり、国際通貨単位であったポンドを
いつまでも使っていたいという気持ちが大きいのです。
また、ユーロを導入すると、自国の状況にあった金融政策がとりにくいのです。
政策金利や通貨供給量の調整が自国の一存ではできません。
ですから、ユーロを導入したくないのです。
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答えからいえば、『6世紀中ごろ』とするが正解だと思います。
まず、渡来人が個人的に日本に持ち込んでいます。
つまり、草の根の交流です。しかし、現在のところ、552年説と538年説が有力です。
552(壬申)年説
『日本書紀』では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に
百済の聖明王(聖王)が使者を使わして、
仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されています。
この上表文中に『金光明最勝王経』のことばが見られ
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古墳をつくる時に、周りの土を盛って造りました。
その土を取ってくぼんだところに水が湧いたり農業用水が流れこんで
お堀ができたそうです。でも、すべての古墳に堀があるわけではなく、
長野県千曲市にある森将軍塚古墳には、堀はありません。
また、巨大なお墓ですから、人が簡単に入ることができないようにするために
お堀を築いたとも言われています。
参考資料(興味のある方は是非、参考にしてください)
埼玉県立さきたま史跡の博物館のサイトより
https://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/?page_id=178
このサイトを見ると、いろんな古墳の疑問が解けます。
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『死後の世界での生活のため』という理由が有力です。
古代では死後、死者の国での生活があると考えられてました。
死後の生活の為に生前使用していた物を一緒に埋葬したと言われています。
また、埴輪は死後に埋葬者の手足となる召使や護衛になると言われています。
これは、余談ですが、『殉葬』といって、生きた人も埋めて、
死後の世界のお供にするというならわしもありました。
古墳の大きさが生前の権力の象徴であったと同様に、
『副葬品』も、埋葬者の生前の位の高さをアピールする目的もありました。
ところで、『死後の世界での生活』という考え方は、
古代エジプトやインカ・マヤ・アステカ等々沢山見られます。ぜひ、調べて
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大仙古墳には仁徳天皇が葬られていると言われてきましたが、教科書にも明記されな
くなりました。それというのも、宮内庁が調査のための発掘を認めていないため、
学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能なのです。
というわけで、ただ、仁徳天皇が活躍されていた時期と一致していることから、
おそらく大仙古墳には仁徳天皇が葬られていると考えられています。
ちなみにこんなサイトがあります。天皇が葬られている古墳がどこにあるかわかるよ
うになっています。仁徳天皇については、次のURLにあります。
https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html
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『土偶』は、縄文時代に使用された、ヒトや動物の形に作った土の人形のことです。
大きさはまちまちで、数㎝から40cm以上のものまで、いろいろあります。
東日本を中心に流行りました。『土偶』は手足などが欠けていたり、
女性を表していることが多く、これは、出産・豊穣(ほうじょう:豊作、ゆたかに実ること)
・再生を意味していたのではないかといわれています。
『埴輪』は、古墳にならべるために作られた土製の焼き物のことです。
円筒埴輪と、形象埴輪の二つがります。4世紀には古墳の頂上の埋葬施設や
その周辺に家や器財の埴輪がならべられ、
5世紀以降は人物埴輪や動物埴輪が多くなったそうです。
初期の『埴輪』
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つまり、小西行長らがすべて仕組んだことです。
秀吉の要求『七か条の条件』が明に伝えられず、
『大明皇帝』の称号がほしかったにもかかわらず、
『日本国王』の称号しかもらえなかったため、秀吉が激怒して第2次朝鮮出兵となったのです。
2人の使節は、明皇帝からの国書、封王の金印と冠服を秀吉に捧げました。
これらの品は、明皇帝から秀吉に対する処遇を暗に示す物でしたが、
秀吉はもちろんそれに気づきません。
翌2日、冊封正使・副使を大坂城に饗応しました。
秀吉は明皇帝から贈られた王冠を着け、赤装束の服を着て上機嫌だっでした。
酒宴のあと猿楽などが催され、秀吉にしても
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