質問箱
「えた」という言葉は13世紀からあります。「天狗草紙」(1296年)にでてきています。公の文書、つまり、公文書には、1644年に江戸幕府が書いています。
935年の本にも「恵止利(えとり)」としてでてきています。
穢多は『けがれがおおい』と書く通り、屠殺(とさつ)などの職についている人々の総称になったのです。もともとは、鷹(たか)を飼うための餌をとる職業の人々のことを言っていたそうですが、それが転じて、穢れの多い、殺生の仕事をする人々を指すようになりました。
もちろん、身分制度として確立したのは江戸時代のことですが、それ以前にも「穢多」と呼ばれる人々は存在しました。「身分制度が確立した」という
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カメルーン
トーゴ
マリ連邦
マダガスカル
ソマリランド
コンゴ共和国
ソマリア
ダホメ
ニジェール
オートボルタ
コートジボワール
チャド
中央アフリカ共和国
コンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)
ガボン
ナイジェリア
モーリタニア
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質問:お葬式がお寺で行われる前はどうしていたのでしょうか。(江戸時代以前)
実は、これといって、とくに決まってはいなかったようです。
ただ、火葬については、日本で一番最初に葬られたのは西暦700年の道昭(天台宗)です。
そひて、持統天皇もその2年後に火葬されました。
平安時代になると、特権階級に限って火葬が普及しました。
全国的にみると、1960年で63%、1970年で70%、1980年で91%の火葬の普及率でした。
鎌倉時代では、民衆の間で葬儀の習慣が無かっ
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質問:教科書にでてくる『ボルテール』ってどんな人でしょうか。
ボルテール(1694~1778)
フランスの思想家。啓蒙主義者。(本名フランソア・マリ・アルエ)
豊かな公証人の子としてパリで生まれました。
法律学を学び、のち文学に熱中しました。
青年時代は、摂政オルレアン公を風刺したためバスチーユ監獄に入れられています。
イギリスに渡り、その民主主義的な制度や文化に感心し、
帰国して、1734年「イギリス便り」を発表し、
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一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、
1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼んでいます。
しかしながら、「鎖国」は明治以降、頻繁に使われた言葉です。
最近では、制度としての「鎖国」はなかったとする意見が多く、しかも、いつの日か、
いつの日か、鎖国という言葉が教科書から消える日がくるかも知れませんね。
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医師が薬物を用いて死期を早めることを『安楽死』。
生命維持装置を利用して生きている末期の患者の
延命措置を行わないようにすることにより死を迎えることを『尊厳死』・
では、これらの死の迎え方にどのような問題があるのでしょうか。
『安楽死』は、そのやり方から自殺ほう助罪や殺人罪に問われるかもしれません。
その一方、『尊厳死』は医療現場で定着しつつある現状があるものの、
終末期医療に対しての国の明確な基準がない状況です。
結果からいえば、日本では、『安楽死』は、現在のところ認められていません。
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朝鮮を李成桂が建国した1392年は、
南北朝合一と同じ年です。
日明貿易と同様に、3代義満の時に国交が開かれました。
日朝貿易は日明貿易とは違って、最初から幕府だけでなく、
守護大名や豪族・商人なども参加したために、
朝鮮は対馬の宗氏を通して貿易を統制しました。
ただ、『勘合』については、明との貿易で使用されたので、
朝鮮との間には、利用されていなかったようです。
1419年、朝鮮は倭寇の本拠地とみなした対馬を襲撃しました。
以後日朝貿易は一時中断しました
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アメリカ国内の諸問題(経済の活性化など)を優先すべきという世論が多かったのです。
また、『モンロー主義』といって、アメリカがヨーロッパ諸国と干渉しない、つまり、関係
をもたない、と主張した第5代米大統領ジェームス・モンローの考え方が多かったといわ
れています。でも、ウィルソン大統領自身は、加盟したかったようです。結局、アメリカ
議会で彼の意見は通らず、国際連盟に加盟できなかったのです。
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まず、誰に暗殺されたかというと、ゴードセーというヒンズー教原理主義過激派です。
同じヒンズー教を信ずる人に殺されてしまったのです。おかしいですよね。
でも、当時の情勢をみると、ヒンズー教とイスラム教が対立、インドからパキスタンが
建国されたりすることを憂いていたガンディー。なんとか平和な世界を築きたいと思い、
『非暴力、非服従』ということを考え出したのです。与謝野晶子が弟を思う心が危険思想
と考えられていた時代と同様にヒンズー教原理主義過激派からすれば、イスラム教の人た
ちに対して、ヒンズー教を信ずるガンディー
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まず、住み心地を考える前に、
どうして、竪穴住居は、半地下になっているのでしょうか。
これは、屋根が作りやすかったからだといわれています。
さて、住み心地ですが…かつては、『夏は涼しく、冬は暖かい』でした。
ところが、最近では、夏場は涼しいというのは、正解です。
しかしながら、半地下であるため、湿気が多いそうです。
そして、冬になると、冷え込んで、大変だったそうです。
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